ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○人が人を評価することの難しさ、限界性。

2011-09-22 14:16:57 | 労働市場
○人が人を評価することの難しさ、限界性。

人は自覚的であるかどうかは別にして、自分が他者から評価されることを怖れる傾向がある。とりわけ、悪しき評価がなされないかと怯えている。人間関係がうまくいかないという訴えはよく聞くけれど、大抵はコミュニケーション能力のあるなしがその要因だと思っている。だけど、その内実とは、残念なことにコミュニケーションの定義がないままに、壁に突き当たった苦しさに辟易していることが殆どだ。よく考えてみると分かる。コミュニケーションがうまくいかないという場合、その底には、話をしている相手の評価を常に気にしている自分がいる。こういうとき、人間は大抵、楽観的になれない。悲観主義が心を支配している。だからと云って、人が人を評価するなんて出来っこないことも事実ではある。しかし、それは神の領域だ、などと云うつもりもさらさらないのである。限界があっても、間違いがあっても、絶対者を生み出さないためには、互いの評価が必要だと僕は思う。ここで、<互いの>という言葉を出したのは、友人どうしの、あるいは、利害関係のない間柄での評価は相互補完的な要素があるにせよ、職場などにおける、地位の上下関係がある場における評価は、上からの一方通行のそれゆえに問題が生じるのである。職場の管理職者を管理される側が評価するシステムが整ってはじめて、評価における誤謬を極力少なく出来るのではなかろうか。

ポジションに上下関係がある場合の、相互補完的な評価がなされにくいのは、立場上、上にいる者に対して、自分が評価の対象になる勇気がない場合が多い。あるいは、そのような発想自体が出て来ないのは、職場そのものが、常に発展する可能性を著しく疎外するような、腐った場になり下がっているからだろう。

上からの一方通行の評価システムが過剰になると、野心のある人は、評価する側に立つために、あらゆる努力(汚いそれも含めて)をするが、野心というものに浮き身を費やすことに興味が薄い人は、上司の見る目がないとき、持てる力量を限りなく消失させられてしまうことになる。こういう職場は確実に衰退する。現在の日本はいかにも戦後民主主義の反動が濃く現れているようで、かなり反動的で保守的な精神的風土になっていると思う。立身出世の階段を昇るにしろ、誰もが実力本意で昇れるわけではない。どのような場であれ、体制をかたちづくっている人間たちにとって、都合よき人だけがその階段を昇っていける。言葉の正しい意味において、組織にとってもっとも害毒になり得るイエスマンだけが、上司になれる。イエスマンには、同じイエスマンしか目に入らない。当然のことだが、このようなことがまかり通ると、 組織全体が腐敗する。上司に対するゴマスリ、おべっか、同僚への裏切り等々、つまらぬことばかりが起こる。働いていて楽しいはずがない。現代とは、このような意味でも、絶望の中で希望の石を拾い集めているような、価値あるものが手のひらにあっても、指の隙間からこぼれ落ちていくような、徒労感の強き時代なのかもしれない。

さて、このような憤懣やるかたなき、投げ出してしまいたくなる衝動を常に裡に抱え持っているとき、僕たちを支えるのは、決して神や仏ではない。あらゆる絶対者を排除して、その後に残る希望のささやかな光とは、強き信念でしかない。むなしい努力をいくつも重ねることの出来る、シジフォスのごとき粘りでしかない。かならず生きる歓びはみえてくるはずだ。僕はそう信じて生きようと思う。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃


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