終末論を唱える宗教は怖い
自分の体験から物を言う。僕が30代の頃だから、かなり前のことである。当時の僕は英語教師として私立学校に勤めていたので、生活の心配もなく、何十坪かの家を郊外に建て、ありていに言えば恵まれた生活環境の中に身を浸していたということになる。
その日のことは鮮明なイメージとして僕の脳髄の中に刻まれている。少し風邪気味で、無理をすればもたぬことはなかったが、なぜか早退をして帰宅することになった。昼過ぎのことだ。車を車庫に入れ、狭い庭を歩いて玄関に向かうのだが、家の中から複数のおとなの声が漏れ聞こえてくる。小さな息子が二人と家内だけのはずなのである。ご近所の何かの寄り合いか、と思って玄関を開け、声の聞こえる部屋に入った途端、僕は事の全てを悟った。3人の見知らぬ男女と家内と息子の二人が言葉を交わしている。息子は幼きゆえにただおとなしく聞き従っているだけだ。驚いたのは自分が知悉しているはずの家内の言葉使いとはかけ離れた、あまりに非現実な丁寧語を家内が口にしていることに対してである。他の3人との会話は、同じ種の言葉で、テキストらしき薄っぺらい書を前にして進行しているではないか。彼らの学習の内容が、聖書の言葉からの引用に満ち溢れていたので、キリスト教を土台にした何らかの新興宗教であることは瞬時に諒解した。ともかくその日は、彼らにはお引き取り頂いて、家内と向き合うことになった。
彼女の話を聞いているうちに、胸糞が悪くなった。僕の知らぬうちに、すでに数カ月の勉強会だと言う。それもよくよく彼らの教義を聞き出してみて、彼らがキリスト教原理主義者たちであり、聖書の記述はすべて事実だとし、その中の預言は実際に起こるという内実をもったそれだった。つまりは、聖書の預言の最大のポイントは、この世界はサタンによって支配されているものであり、だからこそ、世の不幸が絶えることなく起こるのだとする。さらに黙示録に記載されているように、この汚辱にまみれた世界は天から白馬にまたがった神の子キリストが臨在し、サタンをうち滅ぼし、その世界も同時に滅ぶという終末論が彼らの教義の柱であった。そして、世界が滅ぶのはマジかであり、神?への忠誠の度合いに従って、新生の世界に生きることができ、すでに死した人間も神聖な精神をもっていた者たちは、次々に新生世界に甦るのだそうだ。これを読んでおられる方々は、これらキリスト教原理主義者たちが、輸血の拒否をしているということはマスコミ報道などで知っておられるだろう。
僕は激怒した。自身が無神論者だから激昂したのではない。しかし、幼き息子二人を同席させることに対してあまりに無神経な当時の女房に対して、そしてそういうことを奨励している彼ら宗派に対して、だ。宗教を持つ、持たないは、たとえ家族といえども、自己の責任においてやるならそれもよしだが、小さき者に対するこの種の極端な終末論の刷り込みは許せなかった。僕たち夫婦が離婚するのはもっと先のことだが、このときすでに、家庭崩壊の時限装置は時を刻み始めたように思う。
新興宗教に財産の全てを飲み干される人の数はいまだに多いと思う。なぜ怪しげな宗教に引っかかるのかということの決め手は、やはりそれぞれ宗教のかたちは違えども、すべてに共通して在るのは、この世の終わりは近いという、終末論が教義の根底に据わっていることである。この世界が終わるのであれば、次の世が在るという論理が出てくるのは必然であり、またその世界においては、神の采配と神への忠誠によって現世にあるごときあらゆる矛盾は消失し、理想境における生まれかわりが可能だとする単純極まりない論理展開にならざるを得ない。なぜ人々はこの種の次元の低い思想に染まるだろうか?
入口論としては、極めて単純なのである。彼女においては、子育ての不安感を勧誘に来た信者に相談したのだという。この宗派の特徴は、薄気味悪いほどの笑みと、愛想の良さ、不自然過ぎる丁寧語が創りだす虚構の安心感で、不安感を抱えた人間の心を鷲つかむのである。宗教原理そのものが、終末論に根ざしている場合、人間は、この矛盾と汚辱に満ちた現実世界から逃避しよう、という思想の回路が脳髄の中で出来あがることが多い。単なるお困りごと相談から始まって、来世願望を述べ伝えられることで、人々から現実世界の矛盾と対峙していく勇気を奪い去る。その上で、安寧な絶対者への盲従だけが、来世における幸福の度合いを決める最大の基準であると刷り込まれれば、行き詰った人間の何十%かは、どっぷりと終末論へと突き進む。こんな苦しい世界なら早くなくなってしまえばよいし、来るべき理想世界において、自分は幸福に満ちた生を再び生き直すのだという、現実放棄の、無意味・無責任な思想に陥る。
しかし、このような思考回路からは、如何なる意味においても、現実を変革していくという、人間の精神のエネルギーなど出て来るはずがない。絶対に認めることなど出来はしない。とは言え、僕の当時勤めていた私立学校のバックグラウンドは、現実ベッタリの、金儲け主義の、日本最大の宗教教団であった。僕の結論。宗教など必要ないではないか!たとえどのような汚辱にまみれた世界であれ、生きている限りは、汚辱と対峙するべきだ。間違ってはいないと思う。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
自分の体験から物を言う。僕が30代の頃だから、かなり前のことである。当時の僕は英語教師として私立学校に勤めていたので、生活の心配もなく、何十坪かの家を郊外に建て、ありていに言えば恵まれた生活環境の中に身を浸していたということになる。
その日のことは鮮明なイメージとして僕の脳髄の中に刻まれている。少し風邪気味で、無理をすればもたぬことはなかったが、なぜか早退をして帰宅することになった。昼過ぎのことだ。車を車庫に入れ、狭い庭を歩いて玄関に向かうのだが、家の中から複数のおとなの声が漏れ聞こえてくる。小さな息子が二人と家内だけのはずなのである。ご近所の何かの寄り合いか、と思って玄関を開け、声の聞こえる部屋に入った途端、僕は事の全てを悟った。3人の見知らぬ男女と家内と息子の二人が言葉を交わしている。息子は幼きゆえにただおとなしく聞き従っているだけだ。驚いたのは自分が知悉しているはずの家内の言葉使いとはかけ離れた、あまりに非現実な丁寧語を家内が口にしていることに対してである。他の3人との会話は、同じ種の言葉で、テキストらしき薄っぺらい書を前にして進行しているではないか。彼らの学習の内容が、聖書の言葉からの引用に満ち溢れていたので、キリスト教を土台にした何らかの新興宗教であることは瞬時に諒解した。ともかくその日は、彼らにはお引き取り頂いて、家内と向き合うことになった。
彼女の話を聞いているうちに、胸糞が悪くなった。僕の知らぬうちに、すでに数カ月の勉強会だと言う。それもよくよく彼らの教義を聞き出してみて、彼らがキリスト教原理主義者たちであり、聖書の記述はすべて事実だとし、その中の預言は実際に起こるという内実をもったそれだった。つまりは、聖書の預言の最大のポイントは、この世界はサタンによって支配されているものであり、だからこそ、世の不幸が絶えることなく起こるのだとする。さらに黙示録に記載されているように、この汚辱にまみれた世界は天から白馬にまたがった神の子キリストが臨在し、サタンをうち滅ぼし、その世界も同時に滅ぶという終末論が彼らの教義の柱であった。そして、世界が滅ぶのはマジかであり、神?への忠誠の度合いに従って、新生の世界に生きることができ、すでに死した人間も神聖な精神をもっていた者たちは、次々に新生世界に甦るのだそうだ。これを読んでおられる方々は、これらキリスト教原理主義者たちが、輸血の拒否をしているということはマスコミ報道などで知っておられるだろう。
僕は激怒した。自身が無神論者だから激昂したのではない。しかし、幼き息子二人を同席させることに対してあまりに無神経な当時の女房に対して、そしてそういうことを奨励している彼ら宗派に対して、だ。宗教を持つ、持たないは、たとえ家族といえども、自己の責任においてやるならそれもよしだが、小さき者に対するこの種の極端な終末論の刷り込みは許せなかった。僕たち夫婦が離婚するのはもっと先のことだが、このときすでに、家庭崩壊の時限装置は時を刻み始めたように思う。
新興宗教に財産の全てを飲み干される人の数はいまだに多いと思う。なぜ怪しげな宗教に引っかかるのかということの決め手は、やはりそれぞれ宗教のかたちは違えども、すべてに共通して在るのは、この世の終わりは近いという、終末論が教義の根底に据わっていることである。この世界が終わるのであれば、次の世が在るという論理が出てくるのは必然であり、またその世界においては、神の采配と神への忠誠によって現世にあるごときあらゆる矛盾は消失し、理想境における生まれかわりが可能だとする単純極まりない論理展開にならざるを得ない。なぜ人々はこの種の次元の低い思想に染まるだろうか?
入口論としては、極めて単純なのである。彼女においては、子育ての不安感を勧誘に来た信者に相談したのだという。この宗派の特徴は、薄気味悪いほどの笑みと、愛想の良さ、不自然過ぎる丁寧語が創りだす虚構の安心感で、不安感を抱えた人間の心を鷲つかむのである。宗教原理そのものが、終末論に根ざしている場合、人間は、この矛盾と汚辱に満ちた現実世界から逃避しよう、という思想の回路が脳髄の中で出来あがることが多い。単なるお困りごと相談から始まって、来世願望を述べ伝えられることで、人々から現実世界の矛盾と対峙していく勇気を奪い去る。その上で、安寧な絶対者への盲従だけが、来世における幸福の度合いを決める最大の基準であると刷り込まれれば、行き詰った人間の何十%かは、どっぷりと終末論へと突き進む。こんな苦しい世界なら早くなくなってしまえばよいし、来るべき理想世界において、自分は幸福に満ちた生を再び生き直すのだという、現実放棄の、無意味・無責任な思想に陥る。
しかし、このような思考回路からは、如何なる意味においても、現実を変革していくという、人間の精神のエネルギーなど出て来るはずがない。絶対に認めることなど出来はしない。とは言え、僕の当時勤めていた私立学校のバックグラウンドは、現実ベッタリの、金儲け主義の、日本最大の宗教教団であった。僕の結論。宗教など必要ないではないか!たとえどのような汚辱にまみれた世界であれ、生きている限りは、汚辱と対峙するべきだ。間違ってはいないと思う。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃