ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○大学時代の友人のこと

2010-03-15 13:12:52 | 観想
○大学時代の友人のこと

数人いるが、その数人とて、音信が途絶えたような、繋がっているような、曖昧な関係性でしかない。たぶん、正確に云うと、彼らは友人ですらないのだろう。僕には、自分の能力の欠如と、将来を見据える能力が決定的になかったわけで、70年安保の渦の中に入って、入れる大学をフイにした。いや、そもそも高校に入学した当時の学力から、勝手に教師たちが判断した結果だけに頼って物を言っているに過ぎないので、70年安保闘争などなくても、教師たちが受験の成果を上げたいというつまらぬ目的に乗っかったとしても、受験には失敗しているに違いない。いまなら、冷静にそう思えるが、一旦大学入試を放棄して、その後大学に入りなおしたのが、かつては視野にも入らなかった私大だったので、つまらねえーという気分の方が勝り、大学には殆ど行かなかった。まあ、誰の世話にもならなかったので、アルバイトが忙しかったせいもあり、ちょっとした金持ちの女の子に頼ったこともあるわけで、下卑た大学生だったと思う。自分の当時の姿など出来ることなら、記憶の底から抹殺してしまいたいくらいのものである。

ツルンでいたのは、男友だち(と規定できるのか?)ばかりだったので、そのうちの何人かとは交流がないではないが、東京にいる誠実な男とは、かなり親密に会ったりもしていたし、手紙のやりとりもしてはいた。人のいいやつで、たぶん、仕事には恵まれないにしても、他者からは信頼されるタイプの人間である。そもそもやつは、現世的な価値意識の中でも健全極まる考え方を生きる指標にしているので、僕は心の底の方で這いずりまわっている精神の暗黒の部分はヒタ隠しにしておかねばならなかったのである。とは言え、人間、生涯誤魔化しは出来ないもので、ぼちぼちと自分の本質的な想念を手紙に書き始めたら、さっそく反論が来た。こちらが書くたびに。価値観を共有するなどという高尚な問題ではなく、二人の間の違和感の本質は、育ちの良さ、悪さという類の次元から生じるものだ。無論言うまでもなく、育ちが悪いのは僕の方である。

昨今、過去に築いた人間関係に対して、限りなく懐疑的になっているので、いっそすんなりとすべてを投げ出してもよいか、と思う。思えば、僕は孤独感に苛まれながらも、これまで一度たりとも、孤独という状況に自分を追い込んだことがない。それが表層的というそしりを受けようと、常に仲間がいたからである。しかし、文字どおり、人生の終盤に立ち入ったのである。死は当然に一人で迎える人間の終焉の姿である。ここらあたりで、すべてのしがらみを断ち切って、現象的にも一人になってもよいか、と考えている。そこから視える風景は、かつて僕が夢見た幼い頃の原風景とまったくかけ離れたものなのか、あるいは、少しは共通項らしきものがあるやなしや。何となく今後の行動が決まったような気がする今日の観想である。

最後に書き加えておくとすれば、この東京のかつての親友は、もはやそこらへんを歩いている見知らぬ人と同じ次元にまで漂白された人になってしまった感がある。辛いことだが、人はこのようにして、独りになっていくのだろう、と思う。彼も僕とは違う意味での孤独の観念と加齢とが自分を変質されているのだろう。哀しいね、人間って。心底そう思う。

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長野安晃        


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