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地図を見ていて気付いたこと。鎌倉は世界で最も小さな首都のひとつだと思うこと。
Google map で表示された画像に、書き込んでみました。赤い線は尾根、黄色い線はいわゆる「鎌倉七口」、緑色の線は鉄道。
平安京の広大さから比べてみたり、その前後の時代も首都(というか政治の中心)は平安京であり続けてた(1603年に江戸開府まで)ことから、この小さな片田舎の山奥にそれまでの藤原貴族とは違う武家政権を樹立したことなど考えると、アンチテーゼの塊です。
面白いのは、各地と鎌倉を繋ぐ街道口がものすごく狭いこと。赤線の尾根が天然の要害
になっていて、出入り口である七口も細く、大規模な軍隊がたやすく首都に入れないようになってます。鎌倉幕府が滅ぶときにしぶとい抵抗をしました。裏を返せば交易するのもちょっと大変だった訳です。源平の争乱が治まって後、西の端にある「極楽寺」の切通は、更に海側により平坦な稲村ケ崎の道ができてしまったりして「あ、やっぱり不便なことには我慢できなかったんだな」と考えさせられます。
他の切通についても、その道を拡幅して現在の道として使われていることは無く、引きこもりがちな首都だったことは、ちょっと面白いです。周辺各地に「鎌倉街道」なる道が有るにも拘らず、首都に入るところできゅっと締められちゃっているってことです。鎌倉時代がいかに不安定な時代だったか、と想像できます。舌先で丸め込めず拳骨で解決したから、他人が信用できなかったということでしょうか。
史跡扱いの巨福呂坂は、民家への通路になって立ち消えてて、代わりに開削した道路は舗装されていたり(戸塚方面からの県道)、谷間を抜ける朝夷奈はすぐ隣に急な峠越えの道ができたりして、現代の道に反映されていないのが不思議です。おかげで昔を偲ぶことが出来るんですけどね。
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鎌倉府5代成氏の代で古河に根拠を移したこと。
この間の変化なんですよね。
で、関東が公方方と管領方に分かれて争っている時代、鎌倉の城郭は“鎌倉”ではなく、玉縄に置かれたということも、時代の変化を読み取る材料でしょう。
宅地開発された現在でもこれだけ山に囲まれているということは、当時はもっと秘境(?)のような場所だったということでしょうね。
鎌倉は聖地なので、そこで源氏同士が刀を交えることはマズい、とか鎌倉という土地が地理的に不都合な理由があったのかもしれません。
>当時はもっと秘境(?)のような場所だったということでしょうね。
…マチュ・ピチュとかチベットとかに近いものが。