山とバイクと時々お遍路

近畿北部、北陸の山(特に白山が好き)歩き。バイクツーリング、自転車で遊んでいます。

天空の城 備中松山城 

2020年01月23日 | 城郭・城跡
2020年1月18日(土)晴

【備中松山城】・・・Wikipediaより
日本三大山城(美濃岩村城、大和高取城)、日本百名城
現存天守を持つ山城としては最も高い所にある。
別名:高梁城
城郭構造:連郭式山城
天守構造:複合式望楼型2重2階(天和元年(1681年)改)
築城主:秋庭三郎重信
築城年:1240年
主な改修者:三村元親、水谷勝宗
主な城主:三村氏、水谷氏、板倉氏
廃城年:明治7年(1874年)
遺構:現存天守・櫓・塀、石垣、土塁
指定文化財:重要文化財(天守、二重櫓、土塀)国の史跡
再建造物:櫓・門・塀

城跡俯瞰図


縄張り図



鞴峠(ふいごとうげ)城見橋駐車場から歩いて15分 シャトルバス(400円)あり


中太鼓櫓跡の石垣


中太鼓櫓跡




高梁市街


小松山城跡へ


自然巨岩を取り込んだ石垣は迫力あり


白壁土塀(重文)






本丸


本丸


天守閣入場口


天守(重文)




猫城主 さんじゅーろー


歴代城主


本丸西門
















本丸右横から奥へ進む






二重櫓(重文)


裏に回ると自然岩の上に石垣


土橋を渡り次は大松山城跡へ




















本丸に戻りました


最後に下太鼓櫓跡に寄ります




中太鼓櫓跡を望む


展望所から夕景の備中松山城










因幡三名城攻略その3 鹿野城(標高152m)

2018年05月13日 | 城郭・城跡
2018年5月10日(木)晴れ

山陰にある戦国の城では珍しい内堀、外堀、石垣などが今でも当時の面影を留めています。春には、ソメイヨシノ約500本の桜の花が辺り一面を桜色に染め水面に映し出されます。鹿野城は現在、天守などの建物はなく石垣などの遺構が残されています。戦国時代の山城とは、まさにこの城のことです。天正九年(1544)出雲の尼子勢出身の亀井武蔵守茲矩が鹿野城主となり、父子二代でこの城を拠点に三七年間統治しました。元和三年(1617)二代目政矩は津和野へ移封、城は寛永五年(1628)焼失し、石垣は正保元年(1644)取り壊されました。天守跡からは日本海が眺望でき東西南北全方角を見通せます。
【ふるさと鹿野観光情報より】


名称・・・・鹿野城、王舎城、志加奴城、鹿奴城
所在・・・・鳥取県鳥取市鹿野町鹿野
形態・・・・平山城
築城年・・・不明
築城主・・・志加奴氏(鹿野氏)
主な城主・・志加奴氏、山名氏、亀井氏、池田氏
廃城年・・・1871年
遺構・・・・石垣、堀、曲輪、土塁
指定文化財・なし






























幸盛寺(山中鹿之助菩提寺)


山中鹿之助の墓



因幡三名城攻略その2 鳥取城(久松山城)標高263m

2018年05月13日 | 城郭・城跡
2018年5月10日(木)晴れ

名称・・・・鳥取城、久松城 久松山城
所在・・・・鳥取県鳥取市東町2丁目
形態・・・・梯郭式平山城および山城
築城年・・・天文年間(1532年~1555年)
築城主・・・但馬山名氏
主な城主・・山名氏、吉川氏、宮部氏、池田氏
廃城年・・・明治4年(1871年)
遺構・・・・石垣、堀、井戸
指定文化財・国の史跡

【鳥取市ホームページより】
鳥取城跡(久松山)。大地が育んだ急峻な地形を持つ山は、戦国時代の山城を起源にした城跡です。
防御性の高さや、山頂からの優れた眺めから、「日本(ひのもと)にかくれなき名山」と評され、織田信長は「名城」と評しました。
鳥取城は、歴史的に著名な羽柴(後の豊臣)秀吉の兵糧攻めの舞台になり、江戸時代には国内12番目の規模を誇った鳥取藩32万石の居城となりました。その歴史の長さから、中世から近世に至る多様な城の姿を残しています。それ故に、鳥取城跡とその周辺は、日本城郭の歴史を物語る「城郭の博物館」と呼ばれています。





































































鳥取砂丘












因幡三名城攻略その1 若桜鬼ヶ城(標高446m)

2018年05月12日 | 城郭・城跡

2018年5月10日(木)晴れ

名称・・・・鬼ヶ城、若桜城
所在・・・・鳥取県八頭郡若桜町若狭
形態・・・・連郭式山城
築城年・・・正治2年(1200年)以後
築城主・・・矢部暉種
主な城主・・矢部氏代々、山中鹿之助、八木豊信、木下重堅、山崎家盛、山崎家治
廃城年・・・元和3年(1617年)
遺構・・・・郭、石垣、虎口、竪堀、櫓台
指定文化財・国の史跡
駐車場・・・町体育館、八幡広場

【若狭観光協会HPより】
若桜宿の南東「鶴尾山(452m)」にある若桜鬼ヶ城は、正治2年(1200)に駿河国矢部十郎テル種によって開城されました。矢部氏16代の城主が続き、尼子、毛利、秀吉軍らの戦場となり、その後木下・山崎氏等の居城となりました。一国一城令により廃城となりましたが、現在も当時の石垣が残り、典型的な山城の形態をとどめており、平成20年3月に国史跡に指定されました。

詳細は
http://kanko.town.wakasa.tottori.jp/search/watch/culture/onigashiro/

注釈【一国一城令】
江戸幕府が出した大名統制の法令。徳川家康が慶長20年6月13日 (1615年) 諸大名に対し,居城以外のすべての城の破却を命じたもので,西国大名に対し,特に厳重に施行された。その趣旨は,直後に発布された『武家諸法度』のなかでも強調され,諸大名の軍事力の抑圧をおもな目的としていた。

鬼ヶ城 国道29号から


体育館裏からスタート


谷を登る


尾根道に合流


曲輪跡の削平地か


石垣が現れる


五合目


さらに急登が続き


三ノ丸に到着




展望が開ける






打ち壊しでくずれた石垣




二の丸






本丸跡を見上げる










本丸跡












天守跡










馬場へ向かう










馬場跡 ここまで車で来れる




六角石垣へ行くべく引き返す




天守跡を見上げる












六角石垣














八幡広場に下城


歩いて車に戻る


縄張り図









川中島合戦 海津城(松代城)

2017年11月13日 | 城郭・城跡
2017年10月29日(日)雨







名称・・・・松代城(まつしろじょう)海津城
所在・・・・〒381-1231 長野県長野市松代町松代
形態・・・・輪郭式平城
築城年・・・永禄3年(1560年)
築城主・・・武田信玄
主な城主・・武田氏、田丸氏、森氏、真田氏
遺構・・・・石垣、土塁、堀
指定文化財・国の史跡
駐車場・・・有り(無料)


読みは「かいづじょう」。山本勘助が築城し、甲州流築城の模範になったといわれる名城。
川中島平全体をにらむ、戦略的に重要な地点にあり、三方を山に囲まれ、西は南北に流れる千曲川という自然の地形を巧みに利用した堅固な造りであった。
激戦となった第4回川中島合戦では、信玄がここを基地として出撃する。
永禄3年(1560)ころには完成したと推定され、『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』によると、謙信との合戦に備えて信玄は築城を急ぎ、山本勘助は80日で普請したという。

太鼓門












南櫓門
















北不明門



























岡澤先生の史跡解説

海津城の名称は、山本勘助の甲州流築城法「甲斐図」に拠り、築城されたところからついたという説もある。明治4年(1871)廃藩置県令で、松代城は翌年廃城となり、本丸・二の丸・三の丸の楼門塀などが取り壊された。真田家の邸宅として取壊しの難を免れた花の丸御殿は、同6年(1873)、不審火により灰燼に帰した。城内の門には、城内入口の南大御門、本丸には太鼓門・東不明門・西不明門・北不明門・土門と呼ばれた通用門などがあった。

小島田町の杉山利治家の表門の屋根屋根瓦は、巴瓦に真田家の家紋「六連銭」がはいっている。間口2.7m・奥行1.8m、杉材で造られている。東側に潜り門があったが、門を修復したときに取り除いてしまったという。当主の話によると松代藩に出仕していた三右衛門が廃城のとき払い下げを受けた門という。

また、稲里町広田の広田砦跡には、同砦の守将であった大日方佐渡守開基の昌龍寺がある。この寺の鐘楼は「四面角塔二層」である。基底部約3.6m四方・2層部約1.8m四方、高さ約15m。1層の隅柱と中柱は手斧削りで、尺角の松材が使われている。この鐘楼は、松代城の隅櫓(すみやぐら)を移築したものと伝えている。兵庫県豊岡市の仙石氏の出石(いずし)城太鼓櫓(重要文化財)や群馬県沼田市の沼田真田氏の沼田城太鼓櫓に、この鐘楼は外形が酷似している。


【岡澤先生のプロフィール】

岡澤由往(おかざわ・よしゆき)

長野郷土史研究会会員。昭和5年(1930)、長野市小島田町生まれ。大東文化学院専門学校(現大東文化大学)本科卒業後、長野県立高等学校各校の教員勤務(国語・社会担当)を経て、長野市誌刊行委員副委員長・編さん専門委員を務める。

教員在職中、古文書の解読を独学で習得。以来、川中島周辺地域の家々に残る貴重な古文書や史料、伝承などの研究を続けており、2006年には川中島古戦場史跡の故事となった『甲越信戦録』現代語訳を上梓。現在農業に従事するかたわら、各地の公民館や学校などで古文書解読・「川中島の戦い」にまつわる講演・講座の講師を多数手がけている。
著書に『もう一つの六文銭』(銀河書房)、『激闘!川中島合戦をたどる』(龍鳳書房)、『戦国哀歌川中島の戦い─甲越信戦録・現代語訳』(龍鳳書房)、監修に『古戦場の村々の記録』(銀河書房)など。