2017年3月28日(火)曇り時々晴れ雨
名称・・生野城跡
所在・・〒679-3301 兵庫県朝来市生野町口銀谷
形態・・山城
築城・・応永三十四年(1427)、
築主・・但馬守護 山名時熈(山名宗全の父)
【以下、生野町教育委員会による現地説明板より】
★遺構
標高609mの山頂に36m四方の主郭(本丸)を中心に、西方の但馬街道に向けて大規模な二の曲輪三の曲輪が続き、尾根の要所に多数の別郭や堀切を構築して、敵の攻撃に備えています。中世山城の典型的な遺構を見ることができます。深い谷間の林の中にも、土塁に囲まれた曲輪群や堀切がよく残り、戦国時代の城塞跡として非常に貴重な存在といえます。
★生野城年表
応永34年(1427年)・・山名時熈生野山城を築く
天文11年(1542年)・・城山の南表で銀石が掘り出され、但馬守護職山名佑豊が
これを支配する。その後、大規模な山城の改修に着手。
弘治02年(1556年)・・竹田城主太田垣朝延が山名佑豊から銀山の領有権を奪う。
天正05年(1557年)・・織田信長の命を受けた羽柴秀吉が真弓峠から但馬に進攻する。
生野城守備の家臣は竹田城まで後退するが、太田垣朝延も
これを阻止できず竹田城は落城する。
以後生野城は廃城となり、山麓にあった平城は織田信長の
銀山経営の拠点となった。
天正10年(1582年)・・織田信長の死後、秀吉は生野銀山を直轄地とし、
代官を置き経営する。
慶応05年(1600年)・・関ヶ原の戦い以後、徳川家康が生野の地を天領として支配する。
鉱山収入は260年にわたり徳川幕府の重要な財源であった。
びわの丸健康公園をスタート
公園上部から生野町市街
びわの丸 後方が生野城跡(古城山)
樒の花
別郭
生野市街地
三の曲輪から二の曲輪、本郭を見上げる
二の曲輪
二の曲輪
本郭
名称・・生野城跡
所在・・〒679-3301 兵庫県朝来市生野町口銀谷
形態・・山城
築城・・応永三十四年(1427)、
築主・・但馬守護 山名時熈(山名宗全の父)
【以下、生野町教育委員会による現地説明板より】
★遺構
標高609mの山頂に36m四方の主郭(本丸)を中心に、西方の但馬街道に向けて大規模な二の曲輪三の曲輪が続き、尾根の要所に多数の別郭や堀切を構築して、敵の攻撃に備えています。中世山城の典型的な遺構を見ることができます。深い谷間の林の中にも、土塁に囲まれた曲輪群や堀切がよく残り、戦国時代の城塞跡として非常に貴重な存在といえます。
★生野城年表
応永34年(1427年)・・山名時熈生野山城を築く
天文11年(1542年)・・城山の南表で銀石が掘り出され、但馬守護職山名佑豊が
これを支配する。その後、大規模な山城の改修に着手。
弘治02年(1556年)・・竹田城主太田垣朝延が山名佑豊から銀山の領有権を奪う。
天正05年(1557年)・・織田信長の命を受けた羽柴秀吉が真弓峠から但馬に進攻する。
生野城守備の家臣は竹田城まで後退するが、太田垣朝延も
これを阻止できず竹田城は落城する。
以後生野城は廃城となり、山麓にあった平城は織田信長の
銀山経営の拠点となった。
天正10年(1582年)・・織田信長の死後、秀吉は生野銀山を直轄地とし、
代官を置き経営する。
慶応05年(1600年)・・関ヶ原の戦い以後、徳川家康が生野の地を天領として支配する。
鉱山収入は260年にわたり徳川幕府の重要な財源であった。
びわの丸健康公園をスタート
公園上部から生野町市街
びわの丸 後方が生野城跡(古城山)
樒の花
別郭
生野市街地
三の曲輪から二の曲輪、本郭を見上げる
二の曲輪
二の曲輪
本郭