山とバイクと時々お遍路

近畿北部、北陸の山(特に白山が好き)歩き。バイクツーリング、自転車で遊んでいます。

小金ヶ嶽 史跡探訪(兵庫県篠山市)

2017年11月27日 | 山歩き
2017年11月23日(祝木)晴れ

コース
火打岩口 ⇒ 楞厳寺跡 ⇒ 小倉乢 ⇒ 小金ヶ嶽 ⇒ 福泉寺跡 ⇒ 火打岩口

総所要時間:7時間
行動時間 :6時間21分
休憩、休息:39分

歩行距離 :約12㎞


多紀連山は御嶽(793m)を主峰とし、平安時代末期から中世にかけて三岳連山修験道の行場として栄えていました。いまも山中には修験道の中心であった大岳寺(みたけじ)跡、福泉寺跡、水飲場、行場等数多くが残ります。
三岳連山修験が栄えるにつれ、福泉寺・楞厳寺・清龍寺・豊琳寺・東明寺・満楽寺・金輪寺・西光寺・高安寺・興聖寺・佛性寺などの寺が周辺に建立されました。
大岳寺の隆盛を危惧した本山の吉野大峯側は、三岳側に登山の催促をしたが応じなかったため、文明十四年(1482)、吉野蔵王堂の山伏三百人が来襲し三岳側の僧徒はこれを迎撃したが敗れ、大岳寺をはじめ連山の寺々はことごとく焼失してしまいました。

8時31分スタート

ここが今日の目的です


この沢沿いに進みます


入り口に倒れた案内板




荒れて浸食された道を進むと左は段々の田畑あとか屋敷跡が現れすぐに


石垣の残る楞厳寺跡に到着







裏には大正15年10月と


伝承の女人窟や経塚を付近に探すが見つけられず稜線によじ登り尾根縦走へ
御嶽を真ん中に右小金ヶ嶽、左西ヶ嶽の三山


昔の広い道が続く


倒木が多く障害物競走のように進む


紅葉も少し残る


小金ヶ嶽が近くなり


12時37分 昼食を済ませて小倉乢 ここから急登が続く




岩場に出ると鍔市ダムが あの先から尾根を歩いてきました




東には京都愛宕山も確認


北には大江山も


小金ヶ嶽がすぐ近くになり


14時4分~10分 小金ヶ嶽


御嶽


14時35分 福泉寺跡






台風で様相の変わった谷沿いを注意深く下る


登山口に出て車まで10分


15時31分ゴ~~ル


見ていただきありがとうございました

白山周回(兵庫県西脇市)

2017年11月18日 | 山歩き
2017年11月17日(金)晴れ

山友さんのお付き合いで、黒田官兵衛ゆかりの黒田庄町から道のない尾根をたどり白山へと周回し前坂集落大歳神社に下山しました。
荒れた尾根をテープを頼りに歩きました。
急傾斜の登りもあり、なかなか歩き応えのあるルートでした。

総時間:6時間
実動時間:約5時間
総距離:約10㎞(山道は約8㎞)

8:00 黒田城跡駐車場からスタートします。今朝は濃霧でした。


適当に尾根に取りつく


霧が薄れ陽がさしてきた




最初のピーク


9:30 天狗山(四等三角点:点名天狗山)


石金山


笠形山


篠ヶ峰


黒田集落


藪、藪


天狗山を振り返る


11:30~12:20 白山昼食休憩


三角点山


妙見山


13:30 大歳神社に下山


ここが前坂ルート登山口になっています




前坂から黒田への蓬莱峠


扉を開けて


歩いた尾根を見ながら


14:00 車に戻り終了です



御嶽・小金ヶ嶽周回(兵庫県篠山市)

2017年11月16日 | 山歩き
20117年11月15日(水)晴れ

大タワ駐車場 ⇒ 小金ヶ嶽 ⇒ 県道 ⇒ ヨートギ谷 ⇒ 御嶽 ⇒ 大タワ駐車場

総時間・・3時間30分
実働時間・・3時間

毎度お馴染みのホームグランドです。紅葉を期待していましたが、台風のせいで葉が落ちてしまっていました。倒木や枝落ち落葉が多く踏み跡が分かりにくい状況になっていました。

駐車場からの雲海


スタート


フォレストアドベンチャー


クサリ場


振り返ると御嶽


小金ヶ嶽


鹿倉山


八ヶ尾山


御嶽


県道に出て約10分歩いて


紅葉


御嶽あそこまで登ります


ヨートギ谷は荒れていました


お気に入りの岩でお弁当にします


西ヶ嶽


三田市の大船山


小金ヶ嶽


休憩小屋


御嶽頂上


倒木多い


ゴ~~ル





川中島合戦 海津城(松代城)

2017年11月13日 | 城郭・城跡
2017年10月29日(日)雨







名称・・・・松代城(まつしろじょう)海津城
所在・・・・〒381-1231 長野県長野市松代町松代
形態・・・・輪郭式平城
築城年・・・永禄3年(1560年)
築城主・・・武田信玄
主な城主・・武田氏、田丸氏、森氏、真田氏
遺構・・・・石垣、土塁、堀
指定文化財・国の史跡
駐車場・・・有り(無料)


読みは「かいづじょう」。山本勘助が築城し、甲州流築城の模範になったといわれる名城。
川中島平全体をにらむ、戦略的に重要な地点にあり、三方を山に囲まれ、西は南北に流れる千曲川という自然の地形を巧みに利用した堅固な造りであった。
激戦となった第4回川中島合戦では、信玄がここを基地として出撃する。
永禄3年(1560)ころには完成したと推定され、『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』によると、謙信との合戦に備えて信玄は築城を急ぎ、山本勘助は80日で普請したという。

太鼓門












南櫓門
















北不明門



























岡澤先生の史跡解説

海津城の名称は、山本勘助の甲州流築城法「甲斐図」に拠り、築城されたところからついたという説もある。明治4年(1871)廃藩置県令で、松代城は翌年廃城となり、本丸・二の丸・三の丸の楼門塀などが取り壊された。真田家の邸宅として取壊しの難を免れた花の丸御殿は、同6年(1873)、不審火により灰燼に帰した。城内の門には、城内入口の南大御門、本丸には太鼓門・東不明門・西不明門・北不明門・土門と呼ばれた通用門などがあった。

小島田町の杉山利治家の表門の屋根屋根瓦は、巴瓦に真田家の家紋「六連銭」がはいっている。間口2.7m・奥行1.8m、杉材で造られている。東側に潜り門があったが、門を修復したときに取り除いてしまったという。当主の話によると松代藩に出仕していた三右衛門が廃城のとき払い下げを受けた門という。

また、稲里町広田の広田砦跡には、同砦の守将であった大日方佐渡守開基の昌龍寺がある。この寺の鐘楼は「四面角塔二層」である。基底部約3.6m四方・2層部約1.8m四方、高さ約15m。1層の隅柱と中柱は手斧削りで、尺角の松材が使われている。この鐘楼は、松代城の隅櫓(すみやぐら)を移築したものと伝えている。兵庫県豊岡市の仙石氏の出石(いずし)城太鼓櫓(重要文化財)や群馬県沼田市の沼田真田氏の沼田城太鼓櫓に、この鐘楼は外形が酷似している。


【岡澤先生のプロフィール】

岡澤由往(おかざわ・よしゆき)

長野郷土史研究会会員。昭和5年(1930)、長野市小島田町生まれ。大東文化学院専門学校(現大東文化大学)本科卒業後、長野県立高等学校各校の教員勤務(国語・社会担当)を経て、長野市誌刊行委員副委員長・編さん専門委員を務める。

教員在職中、古文書の解読を独学で習得。以来、川中島周辺地域の家々に残る貴重な古文書や史料、伝承などの研究を続けており、2006年には川中島古戦場史跡の故事となった『甲越信戦録』現代語訳を上梓。現在農業に従事するかたわら、各地の公民館や学校などで古文書解読・「川中島の戦い」にまつわる講演・講座の講師を多数手がけている。
著書に『もう一つの六文銭』(銀河書房)、『激闘!川中島合戦をたどる』(龍鳳書房)、『戦国哀歌川中島の戦い─甲越信戦録・現代語訳』(龍鳳書房)、監修に『古戦場の村々の記録』(銀河書房)など。

川中島合戦 妻女山

2017年11月11日 | 城郭・城跡
川中島の戦いは、今から約450年ほど前、北信濃の経路を巡って、甲斐の武田信玄と、越後の上杉謙信が、天文22年(1553)、川中島布施(現長野市篠の井駅付近)で、干戈を交えた布施の戦いから、永禄7年(1564)篠ノ井塩崎の退陣まで、足掛け12年、前後5回の交戦を指している。いずれも北信濃、川中島地方が主戦場になった。この間の戦いを総称して川中島の戦いと云う。
 永禄4年(1561)9月10日の八幡原の大激戦は、第4回目に当たった。戦国末期の名将、信玄と、謙信が一騎討ちをしたと言う大激戦であっただけに、川中島の戦いと言えば、永禄4年の八幡山の大激戦を指すようになった。この戦いにより、川中島は武田領になった。



川中島古戦場八幡原を望む






海津城方面