山とバイクと時々お遍路

近畿北部、北陸の山(特に白山が好き)歩き。バイクツーリング、自転車で遊んでいます。

丹波白山 大河ドラマ麒麟が来るで注目されるか?

2020年01月15日 | 山歩き
2020年1月13日(月祝)晴れ

11:19 スタート地点
13:05 白山頂上 13:40
14:48 ゴール地点

総時間・・・3時間29分
実働時間・・2時間54分
休憩時間・・35分
歩行距離・・約 4.5㎞

登山口付近には赤井氏の居城「後屋城」跡が在り、今も土塁や屋敷跡が残る。また、今は頂上から降ろされた白山権現神宮が祀られている。

赤井氏一族の守護神白山権現を 加賀白山神社より勧進して白山山頂に祀った「白山権現山」は「城山/赤城山」とも呼ばれ後谷城主赤井氏一族の財宝埋蔵伝説も残る。

【以下丹波新聞記事より】

おじを殺し城を乗っ取る破天荒ぶり

戦国武将・明智光秀を主人公とするNHK大河ドラマ「麒麟がくる」が2020年に放映される。織田信長の家臣として数々の戦で指揮を執った光秀。そんな歴戦の雄を、命からがらの退却に追いやった勇猛な武将がいる。兵庫県丹波市の山城「黒井城」の城主・赤井(荻野)悪右衛門直正だ。「丹波の赤鬼」と呼ばれた破天荒な武将・赤井直正の生涯を追った。

直正は1529(享禄2)年、現在の同市氷上町にあった「後屋城」の城主・赤井時家の次男として生まれた。子どものころの名前は才丸。幼少のころから度胸がすわっていて、知恵と勇気があったという。

その後、同市春日町の「朝日城」を拠点とする荻野家の養子に入り、荻野の名字になった。1554(天文23)年、黒井城主だったおじの荻野秋清を殺して城主の座を奪い取る。この時から「悪右衛門」を名乗るようになった。

直正は氷上郡(現在の丹波市)を中心に力をもっていたが、1565(永禄8)年、内藤宗勝との戦に勝ち、丹波国で一番の実力者になる。このころ、信長が天下統一をめざして丹波国にも勢力を伸ばしてきていたが、当初は直正も信長に従った。しかし、隣の但馬国から丹波国へ攻めてきた山名氏が、信長に助けを求めたことがきっかけで、信長とは敵対関係になった。

策をめぐらし光秀を撃退

信長は1575(天正3)、光秀を総大将とする「丹波攻め」を開始。この年の11月に黒井城を攻撃した。黒井城は落城寸前だったが、1576(天正4)年1月、明智軍にいた多紀郡(現在の篠山市)の八上城主・波多野秀治の軍が赤井軍に寝返ったことで、状況が一変。明智軍は大打撃を受け、光秀は命からがら逃げ帰った。直正は波多野氏と密かに手を結んでいたといわれ、この戦いはのちに「赤井の呼び込み戦法」と呼ばれている。

甲斐国(現在の山梨県)の武田氏の軍学書「甲陽軍艦」に「名高キ武士」として「丹波ノ赤井悪右衛門」と記されるほど、直正の強さは知れ渡っていた。しかし、1578(天正6)年3月、直正は病気で息をひきとる。大将を失った黒井城の勢いは衰え、翌年8月、再び攻めてきた光秀に敗れた。こうして丹波平定戦が終わり、丹波国は光秀がおさめることになった。

この戦いの後、黒井城に入ったのは光秀の重臣、斎藤利三。利三はふもとの下館(現在の興禅寺)に住んでまちをおさめた。後に徳川3代将軍家光の乳母・春日局となる利三の娘、お福はこの下館で生まれ、3歳まで育ったとされる。

黒井城の本城跡は、平らに削られた猪ノ口山の山頂にある。標高356メートルの猪ノ口山全体が敵の侵攻を防ぐ要塞だった。黒井城跡は、戦国時代から織豊時代にかけての城の様子がそのまま残っていることから、1988(平成元)年に国史跡に指定された。

大河ドラマ控え地元も赤井直正PRへ

NHK大河ドラマ「麒麟がくる」放映決定を受けて発足した、同市春日町の黒井城跡地域活性化委員会の会合が7月2日、同町黒井のしろやま交流館で開かれた。

大河ドラマの主人公、明智光秀ゆかりの地のツアーのほか、黒井城主の赤井(荻野)悪右衛門直正を売り出すチャンスとして、直正のキャラクター考案やJR黒井駅前に銅像建立に加え、土産物開発などが提案され、「丹波攻め」のロケ誘致などの機運も盛り上げる。国道沿いなどに「麒麟がくる」の大看板設置なども提案された。大型バス駐車場の確保、興禅寺前駐車場整備もあげた。


今日のコース


貯水池よりスタート






休憩展望所


不動明王


倒木を片付けながら
before


After


頂上到着




社跡


篠ヶ峰


水山


加古川下流西脇方向


多紀アルプス御嶽


昼食


石生駅方面 向山連山


下山尾根


曲輪跡


激坂


展望所


滑る山道


駐車地から白山



登山道は年々荒れてきてます。
石が苔むして滑りやすくなってます。
頂上は雑木が成長して少しづつ展望範囲が狭まっています。
石燈篭に倒れかかった倒木も処理されないままでした。
下山尾根には城であった名残りの曲輪跡が何段も残っており、
この山がれっきとした城山であったことを物語っている。