私の音楽 & オーディオ遍歴

お気に入りアーティストや出会った音楽、使用しているオーディオ機器を紹介します(本棚8)。

ドヴォルザーク「チェロ協奏曲」

2014年11月16日 | クラシック
 以前「クラシックミステリー 名曲探偵アマデウス」という番組がありました(2008-2012:NHK-BS)。
 コメディタッチのドラマ仕立てで、クラシックの名曲に隠された作曲家の想いを掘り下げて紹介する、ある意味「教育啓蒙番組」。
 私はそれまで、その曲の美しさや盛り上がりで好みを決める傾向がありましたが、楽曲の新たな魅力を教えてもらったありがたい番組でもありました。



 録画して見忘れていたものが一つ残っていることに先日気づきました。
 それは、表題の通称「ドヴォコン」。
 有名な曲ですが、ドヴォルザークがどのような時代にどのような想いをこめて作曲したのかを知る人は少ないと思われます。

 さて、番組を覗いてみると・・・

 チェロ協奏曲の最高傑作と呼ばれる本作品の特徴を解説。
 ソロ楽器であるチェロ以外のさまざまな楽器(クラリネット、フルート、ヴァイオリンなど)がソロをとるパートがあり、時にチェロが伴奏に回ることもあることが他の協奏曲と異なる際だった特徴とのこと。
 それが音楽の膨らみや豊かさに繋がり、聴衆も協奏曲というより交響曲を聴いたような満足感に浸れる効果あり。

 また、ドヴォルザークの私生活が垣間見られるのも特徴の一つ。

 それは初恋相手、ヨゼフィーナ・チェルマーコヴァーへの想いです。 
 ドヴォルザークは彼のピアノの生徒であったヨゼフィーナに恋をしますが、彼女は貴族と結婚し、実らぬ恋に終わりました。
 しかし後年彼女の妹と結婚し、親交は続きます。
 ソプラノ歌手となったヨゼフィーナはドヴォルザークが書いた歌曲「Lasst mich allein(ひとりにさせて)」を気に入り、よく歌ったそうです。

 時は過ぎ、活動の場をヨーロッパから米国に移したドヴォルザークはチェロ協奏曲を作曲していました。
 その時、「ヨゼフィーナ危篤」という知らせが彼の元に届きました。
 胸が引き裂かれる気持ちだったのでしょう。
 作曲中の曲の第2楽章に彼女のお気に入り歌曲の旋律を採用したのでした。

 ヨゼフィーナへの想いは、この曲の最後にも反映されています。
 通常、協奏曲の最後はソロ楽器の超絶技巧を聴かせる「カデンツァ」で終わりますが、ドヴォコンにはこのカデンツァがありません。
 再びせつない「Lasst mich allein」の旋律が入り、静かに終わっていくのです。
 そう、最終章を作曲している時にヨゼフィーナの訃報が届いたのでした・・・。

 「カデンツァなき協奏曲」は初演を依頼した当時の名チェリスト、ハヌシュ・ヴィーハンと討論になったとか。
 しかしドヴォルザークは頑として譲らず、静かな終わり方を変えなかった。

 100年以上前の実らぬ初恋へのせつない想いを、我々は聴いていたのですね。

<参考>
ドヴォルジャークの作曲家としての生涯と交響曲について

山田和樹(指揮) パリ管弦楽団演奏会

2014年08月20日 | クラシック
NHK-BS「プレミアムシアター 山田和樹 指揮 パリ管弦楽団演奏会」(2014.6.16放送)
○グリンカ:歌劇「ルスランとリュドミーラ」序曲
○ハチャトゥリアン:ピアノ協奏曲/ピアノ:ジャン・イヴ・ティボーデ
○チャイコフスキー:交響曲第6番ロ短調「悲愴」作品74



<番組説明>
山田和樹は今35歳。5年前、ブザンソン国際指揮者コンクールで優勝、一躍脚光を浴びた。世界の名だたる管弦楽団への客演や音楽祭など、活動をどんどん広げている山田に密着!音楽に向き合う今の姿を伝える。

<山田和樹>
1979年神奈川県生まれ。2001年東京藝術大学指揮科卒業。指揮法を松尾葉子・小林研一郎の両氏に師事。2009年第51回ブザンソン国際指揮者コンクールに優勝。同年、BBC交響楽団を指揮してヨーロッパ・デビュー。プラッソンの代役で指揮したパリ管弦楽団はすぐに再演が決定した。2010年には、小澤征爾氏の指名代役としてスイス国際音楽アカデミー、サイトウ・キネン・オーケストラを指揮、好評を博した。同年6月にスイス・ロマンド管弦楽団とセンセーショナルな初共演を果たした後、2012年に同管弦楽団の首席客演指揮者に就任。2013年12月にはウィーン・デビューを果たした。これまでに、NHK交響楽団をはじめとする国内主要オーケストラ、パリ管弦楽団、フィルハーモニア管弦楽団、ベルリン放送交響楽団、フランクフルト放送交響楽団、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団などへ客演。共演したソリストには、レーピン、ファウスト、ベレゾフスキー、トリフォノフなどが挙げられる。現在、スイス・ロマンド管弦楽団首席客演指揮者、日本フィルハーモニー交響楽団正指揮者、横浜シンフォニエッタ音楽監督他を務める。2014年秋にはモンテカルロ・フィルの首席客演指揮者に就任する。


新進気鋭の日本人指揮者の登場です。
外見は童顔で中肉中背なので、その辺にいる大学生のようにも見えます。
しかし一旦指揮を始めると、その振る舞いはすでにベテラン指揮者のような棒さばき。

うん、この人、いい。

パリ管弦楽団のリハーサルでは楽団員の信頼を勝ち得ていました。
「彼は音楽の新しい可能性を教えてくれる」
「新鮮な驚きがある」
皆、生き生きした表情で演奏していました。
なんというか、楽団員一人一人の音が立っている、という印象を受けました。

彼はインタビューで「音楽のツボ」という表現を使っています。
そのツボを押さえることができると、澄んだ音が広がる、オケが一体化するそうです。
大きなツボが見つからないときは、小さなツボを積み重ねるとか。

彼の魅力は何だろう。
下の新聞記事にあるように「歌心」かもしれません。

その指揮振りは一見オーソドックス、必要十分な動作でオーケストラをコントロールするタイプです。
時に踊っているように見えることもありますが、佐渡裕のようにオーバーアクションでオケから浮いている印象は皆無。
感極まる表情を見せることがあり、音楽を体全体で体現しているかのよう。
(私としてはサイモン・ラトルのように目力で統べるいぶし銀の指揮が好きですが・・・)

チャイコフスキーの「悲愴」、ライブで聴いてみたかった・・・。
間違いなく未来の巨匠(マエストロ)候補だと思います。


小澤征爾が惚れ込んだ指揮者「ヤマカズ21」 パワー全開の夏  山田和樹、33歳の全貌
(日本経済新聞:2012/9/20)

ロリン・マゼール氏、逝く

2014年07月15日 | クラシック
 名指揮者、ロリン・マゼール氏が2014年7月13日に亡くなりました。享年84歳。
 


 私がクラシックを聴き始めた頃、「'77 指揮者のすべて~カラヤンと世界の名指揮者」という本を元にレコードをコツコツ集めました。
 当時はカラヤンとバーンスタインが二大巨頭で、それに続くのがベーム、ムラヴィンスキー、オーマンディ等々。
 小澤征爾、クラウディオ・アバド、リッカルド・ムーティ、ズービン・メータ、そしてマゼールは次世代を担う注目の若手、新進気鋭の強者達という位置づけでした。

 時は過ぎ、カラヤンとバーンスタインは鬼籍に入り、注目の若手達が巨匠となり、更なる次世代にバトンを渡す今日となりました。
 クラシック界に求められる音楽もその時代により異なってくると思われますが、昔は音楽内容の充実、現在はパフォーマンスとしてのインパクトに重点が置かれているような気がします。
 歌舞伎で云えば「外連」でしょうか。
 私はいぶし銀タイプのワルターやベームが好きでした。

 現在はオーディオの質がよくなり、「音楽」より「音」にこだわっている自分に気づいて驚くことがあります。
 自分自身も時代に染まっているようです(苦笑)。

世界的指揮者ロリン・マゼール氏死去
(Billboard Japan 7月14日)
 指揮者や作曲家として世界的に活躍するロリン・マゼール氏が肺炎の合併症のため、米バージニア州の自宅で7月13日に84歳で死去した。
 マゼール氏は、1930年パリ生まれのアメリカ人。8歳で指揮者として初舞台を務め、1953年にイタリアのマッシモ・ベリーニ劇場でヨーロッパ・デビューを飾った。1960年にはアメリカ人として初めてバイロイト音楽祭で指揮をし、その後もベルリン・ドイツ・オペラ芸術監督兼首席指揮者、ウィーン国立歌劇場音楽総監督、クリーブランド管弦楽団音楽監督、バイエルン放送交響楽団の首席指揮者、ニューヨーク・フィルハーモニック音楽監督などを歴任した。日本では1963年以降、何度も来日しており、2013年にはミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団とともに来日公演を行った。
 今回の訃報に際し、指揮者の小澤征爾氏は、「マゼールさんの突然の訃報に驚いています。ブザンソンのコンクールで私が賞を受けた時以来の付き合いです。 アバド、メータ、ムーティや私の世代で、一番のトップを走っていたのがマゼールさんでした。 さびしいです。」 と、コメントしている。

「ワーグナーとユダヤ人の私」

2013年10月27日 | クラシック
 NHK-BSで「BS 世界のドキュメンタリー」で放映された番組です。
 演奏・歌・舞踏・劇を統合した総合芸術「楽劇」を完成させたコンポーザーであるワーグナーを熱狂的なファン(俗称「ワグネリアン」)である司会者が、自身がユダヤ人という矛盾を孕みながら紹介する、ときに緊張感が走る内容でした。

 逆説的ですが、番組の中でワーグナーは「オペラ嫌い」と紹介されました。
 それまでのオペラの題材になった貴族の生活だの、男と女の諍いなどには興味がなかったのです。
 バイロイト歌劇場を造るときも、設計図に見つけた当時流行していた華美な装飾を全部取り去ったエピソードも紹介されています。

 より普遍性・永遠性を求めていくと、その理想像は「ギリシャ悲劇」にたどり着きました。
 なによりもギリシャ悲劇は神話を題材とし、かつ特権階級ではなく民衆の芸術だったことに魅了されたのでした。
 これが彼の楽劇に神話から題材を取ったストーリーが多く採用されている理由です。
 また、楽曲の放つ神秘性もそこに根源があるものと思われます。

 ある作曲家は「ワーグナーの序曲は魔術的に美しいから危ない」と云いました。
 カラヤンはワーグナーの楽劇のリハーサル中、その美しさに感動して涙したという言い伝えもあります。

 ワーグナーが「反ユダヤ」であることは避けて通れない話題です。
 私は以前から知っていました(偉大な作曲家たち Vol.4「ワーグナー」)。
 ただ調べてみると、当時人気者であったメンデルスゾーンやマイアベーアへの嫉妬混じりの要素も指摘されており、今となっては詳細不明です。

 番組中の各出演者のコメント;
・ワーグナーが性格の悪い反ユダヤ主義者であったとしても、彼の崇高な芸術は毅然として存在し続ける。
・人々はヒトラーを通してワーグナーを見がちであるが、するとワーグナーの素晴らしさの一部分しか見えない。音楽作品を通して見ればその偉大さに気づくはずだ。

 これは「答えのない問い」ですね。

番組解説
ワーグナーとユダヤ人のわたし(前編)
2013年5月20日、13年10月7日、13年11月25日
 イギリスの著名な番組プレゼンターで作家のスティーブン・フライはワーグナーの音楽に魅了されてきた。だが同時に、家族をホロコーストで亡くしている彼にとって、ヒトラーがワーグナーを深く信奉していたという事実が心に刺さったトゲとなっていた。フライはワーグナーの足跡をたどり、偉大な音楽と反ユダヤ主義という相入れない事実に折り合いをつけようと試みる。2013年はワーグナー生誕200年。旅するフライの目を通して今なお世界中のオペラファンをとりこにする芸術家の人生と創造性に迫る。
 旅の始まりは、ワーグナーが自身の作品の上演のために建設したバイロイト祝祭劇場。毎年恒例の音楽祭の準備が進む舞台裏で、ワーグナーの魅力を最大限に引き出す劇場の秘密が明かされる。また、ワーグナーのかつての邸宅では彼自身のピアノで“トリスタンコード”を演奏して大興奮!
 さらにフライは、ワーグナーが野心的な“楽劇”「ニーベルングの指環」四部作の着想を得たスイスで音楽の世界に一大変革をもたらすことになる創作の原点を探り、次にロシアのマリインスキー劇場へ。浪費癖による莫大な借金の返済のため、指揮者として各国をツアーしたワーグナーはここにも滞在し、初めて観客に背中を向け、オーケストラの正面から指揮するという当時としては考えられない革命的な上演で人びとを魅了した。
 やがて、マリインスキー劇場の芸術監督への誘いを断って故郷ドイツに戻ったワーグナーだったが、演奏旅行で稼いだ金は借金の返済に消え、結婚生活も破綻。50歳にして、人生の集大成となる「指環」四部作を世に出すどころか、生活していくことさえ難しい状況に追い込まれる。
 そこへ奇跡のように現れたのが、バイエルン王国の国王となったばかりの若きルードヴィヒ2世だった。

ワーグナーとユダヤ人のわたし 後編(再)
2013年5月21日、13年10月8日、13年11月26日
 旅の後半はニュルンベルクから。ワーグナー中期の楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の舞台であり、後にヒトラーがナチス党大会の会場に選んだ場所でもある。ここでフライは、ナチスがいかにワーグナーの音楽をプロパガンダに利用したのかを読み解き、一方では、ワーグナーがいかに深くヒトラーの世界観に影響を与えていたのかをも思い知ることになる。
 そして一行は、再びバイロイトへ。パトロンとなったルードヴィヒ2世の援助で自身の作品のための劇場を建てることになったワーグナーが設計者に出した指示が読み取れるオリジナルの図面や、ここで完成をみた「指環」四部作の最後の作品のオリジナル譜面を間近にしたあと、ついには夢にまで見たバイロイト祝祭劇場の客席と舞台に足を踏み入れる。そこで出会うのは、最近になって音楽祭の総監督となったワーグナーの曽孫のひとり、エファ・ワーグナー。
 バイロイト祝祭劇場でのこうした体験に、音楽祭への期待を新たにするフライだが、どうしてもヒトラーとバイロイトとの密接な関係をぬぐい去ることができない。最後に、アウシュビッツ収容所に捕らえられ、オーケストラでチェロ奏者をしていたユダヤ人女性に会いに行ったフライは、バイロイトの客席でヒトラーと同じようにワーグナーの音楽を聴こうとする自分はユダヤ人として間違っているのだろうかと尋ねるが・・・。

日本の若手クラシック演奏家2人

2012年12月12日 | クラシック
 BS朝日で、二つの番組を視聴しました;

1.奇跡のピアニスト 辻井伸行 夢のカーネギー・デビューまで

(番組内容)ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールゴールド・メダリスト辻井伸行。
2011年、夢のニューヨーク カーネギー・ホールでの演奏までの道のりを追う・・・

 辻井伸行(23)。生まれつき全盲というハンディを乗り越えて10歳でデビューし、14歳に一夜で2曲のコンチェルトを演奏、17歳には史上最年少でショパンコンクールに挑戦。2009年ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで日本人として初めて優勝し、名実ともに世界のツジイとなった。しかし、世界のツジイとなった今もその実力、人気に驕ることなく常に挑戦し続けている。
 2010年10月にはロシアを代表する作曲家、ムソルグスキーのピアノ組曲「展覧会の絵」をサントリーホールのリサイタルで披露。この曲は全16章から構成され演奏時間が30分を超え、ピアノ曲の中でも最難曲のひとつに数えられている。
 優勝後の辻井は、世界中を飛び回って演奏ツアーを続ける合間に、本格的に作曲の勉強も初め、2011年8月には八ヶ岳高原ロッジの音楽ホールで、自ら作曲した曲のみだけのコンサートを開いた。
 2011年9月には、モーツアルトの代表曲、ピアノ協奏曲26番「戴冠式」を東京オペラシティで披露。この曲は、30分におよぶ大曲であり、14歳のとき一夜で2曲のコンチェルトを演奏した1曲だ。
 そして2011年辻井伸行にとって最大の挑戦は、音楽の殿堂ニューヨーク カーネギー・ホールでのリサイタルだ。ルピンシュタインをはじめ、今や伝説となった超一流の演奏家たちと同じステージに立つ。実は彼が12歳のとき、カーネギーの小ホールで演奏しており、当時番組のインタビューでこう語っている。
 「世界的なピアニストになって大ホールで演奏したい・・・」
 あれから11年後、世界のツジイとなって再びカーネギーに戻って来た。
 耳の肥えたニューヨークの聴衆やクラシック評論家はツジイの演奏をどう評価するのだろうか。これまで数々の奇跡を起こしてきた天才ピアニスト辻井伸行。
 2011年の氏の活動と夢のカーネギー・ホールへの挑戦を追う。


 辻井さんの番組はいくつも見てきました。天才です。
 彼の特徴は「純粋(pure)」。
 美しいものを愛し、それを表現する資質は神から与えられたものとしか言い様がありません。

 しかし、今回の番組で取りあげられたカーネギー・ホールでの演奏は、今までの印象とは異なり鬼気迫るものでした。
 音楽にのめり込み、一心不乱に鍵盤を叩き、ピアノと一心同体になって聴衆の心を揺さぶりました。
 評論家の間では20世紀初頭に活躍したホフマンという人が「ピアノと一番仲良くなれたピアニスト」とされてきましたが、もしかしたら辻井さんは彼と同じレベルまで到達できるかもしれません。

 それから、アンコールには自ら作曲した東日本大震災への鎮魂歌が演奏されました。
 涙を流しながら演奏を続ける彼の姿は、ニューヨーカーたちの目にどう映ったのでしょうか。

辻井伸行、カーネギー・デビューにニューヨーカー絶賛(2011年11月14日)
 音楽の殿堂NYカーネギーホールにて、辻井伸行NYデビューリサイタルが11月10日夜8時(日本時間11日)に行われ、大成功をおさめた。
 辻井が演奏に臨んだのは「鍵盤の達人2」と銘打たれたピアノリサイタルのシリーズ。ムソルグスキー「展覧会の絵」をはじめ、ベートーベンのソナタ「テンペスト」やリストを熱演。会場を埋め尽くしたニューヨーカーたちのスタンディングオベーションに答え、アンコールには、世界初演となる自作曲としてフォスターの有名な「金髪のジェニー」をモチーフにした「ジェニーへのオマージュ 作品1」を披露し、会場を埋め尽くす人々と音楽を通じたコミュニケーションを取ることに成功した。さらに東日本大震災への追悼と悲哀への癒しを込めて作曲した『それでも、生きてゆく』で聴衆の涙を誘った。


2.小澤征爾さんと音楽で語った日 ~チェリスト・宮田大・25歳~
(番組内容)世界的指揮者である小澤征爾が、ここ数年、期待をこめて大切に見守っている若いチェリストがいる。
 25歳の宮田大だ。
 これまでエントリーしてきたコンクールの数々で第1位を総なめにし、華々しい受賞歴を持つ宮田。現在、クラシック音楽界で最も注目される若手弦楽奏者のひとりである。
 2011年1月、宮田の本格デビューを期し、小澤は自らがタクトを振る公演のソリストとして彼を起用した。予定していた曲は、フランツ・ヨーゼフ・ハイドン「チェロ協奏曲」。
 ところが、直前になって小澤は体調を崩し、公演は急きょキャンセルに。病床のマエストロはすぐ、宮田に電話をした。
 「来年は必ずやるから、待っていてください」―。
 巨匠と青年の間で、“約束”が交わされた。
 2009年、チェロ部門の国際音楽コンクールの最高峰であるロストロポービチ国際チェロコンクールにおいて、日本人として初めて優勝という快挙を成し遂げた宮田は、以降、活躍の舞台は世界に広がり、2011年には自身初のCDも完成した。
 小澤の本格的な復帰がままならぬ一方で、宮田は名実ともに世界から注目される若手チェリストへ急成長。小澤が闘病していた間は、宮田にとって大いなる飛躍の時となった。
 そして、その月日の積み重ねの先にいつもあったのは、小澤と交わした“約束”だった。
 そんな2人の“約束”のステージが、1年後の2012年1月、ついに実現した。ようやくかなった念願の共演。
 マエストロからクラシック界期待のホープへ、いったいどんな音楽のバトンが渡されたのか。
 若きチェリストの青春の軌跡をたどり、小澤との共演に向かって研さんを積む姿を描き出すとともに、小澤が全身全霊で“音楽のいのち”を伝えたこの公演の模様を送る。


 宮田大さんの優等生的なチェロに小澤氏は不満げな表情を見せます。
 「音楽バカになれ!」「下品一歩手前まで弾け!」と叱咤激励し、けしかけます。
 
 確かに宮田さんの演奏を聴いていると、抜群のテクニックを擁して「上手に弾こう」という意識が先行し、個性が埋没しているような印象が私にもありました。
 前出の辻井さんのように一心不乱に音楽に没頭するような様子がありません。

 おそらく小澤氏は「君のテクニックはもう世界のトップレベル、これからは自分の音楽をもっと自由に表現していいんだよ」と云いたかったのでしょう。

 それにしても、病にやつれた小澤氏の様子が痛々しい。しかしその眼光の鋭さは、文豪・川端康成を思い出させます。
 本当に「身を削って音楽に打ち込む」という言葉がぴったりの所作。
 彼の前では、何人も手を抜いた演奏などできそうもないオーラを纏っています。
 すごい人です。