私の音楽 & オーディオ遍歴

お気に入りアーティストや出会った音楽、使用しているオーディオ機器を紹介します(本棚8)。

「線香花火」 by さだまさし

2019年08月11日 |  My Favorite Artist
 私の夏の定番は文句なしに「A LONG VACATION」(大滝詠一)ですが、それ以前の曲も聴きたくなるときがあります。

 中学生時代にはまったのが、さだまさし
 姉が購入した「風見鶏」を自分の青春時代とリアルタイムに聞き込みました。

 一番のお気に入りが「つゆのあとさき」。
 叙情的な歌詞に魅せられました。
 若い二人の別れの場面を切り取った歌なのですが、
 二人とも思いが募って黙り込んでしまい、 
 そこに柔らかな風が吹き・・・
 さださんは
 「心の代わりに髪、ゆらして」
 と歌いました。



 そのシーンがくっきりと写真のようにイメージされ、私の脳裏に焼きつきました。
 それは40年経った今でも、色あせることはありません。

 さて、大学生になり、さだまさしの昔の曲(グレープ時代)も聞き出しました。
 そして出会ったのがアルバム「帰去来」の中の「線香花火」。
 彼のソロ・デビュー曲だそうです。
 あまり売れなかったらしい。
 叙情的で単調な曲ですから、シングルカットでは売れないかもしれませんね。
 でも、アルバムの中の一曲としては「青春の一瞬間を切り取った」輝きを放っていました。



 その頃の私は、中学校からつき合っていた彼女を残して遠くの大学へ入学し、自ら招いた遠距離恋愛に悩む日々を送っていました。
 年に何回か帰省する度に会うのですが、金融機関に就職して社会人になった彼女との間に広がる距離感を縮めるすべが見つかりません。
 漠然とした不安を抱える二人の様子が、この歌にピタリと重なりました。

 アルバム「帰去来」の最後の曲、「夕凪」も好きな曲です。

 さだまさしさんの曲は、「帰去来」「風見鶏」「私花集(アンソロジー)」「夢供養」まで聞き込みましたが、「印象派」以降のアルバムは、聞かなくなってしまいました。
 なんだか、なじまない。
 なぜなんだろう? と自問自答してみると・・・。
 思うに、彼の歌詞から青春の切なさ・もろさが影を潜めたからではないか、などと50代半ばの今になって思います。

 あの頃、さだまさしは“ネクラ系”と呼ばれていたような。
 なんとなく「さだまさしファンです」と胸を張って言えない雰囲気があったようなおぼろげな記憶があります。
 まあ、ネクラといえば、もっともっと深い中島みゆきや山崎ハコ、森田童子などもバックに控えていた時代ですが。

 現在は、平成の引きこもり経験者のアーティストやお笑い芸人が活躍する時代です。
 SEKAI NO OWARI、米津玄師しかり・・・
 もっとも、日本で最も読まれている小説家である夏目漱石も明治時代の引きこもりの元祖です。
 彼らの繊細な感性が魅力的な作品を創造するのかもしれません。

 私の幼なじみはやはりさだまさしファンで、親子あるいは3世代一緒にコンサートに通っていたそうです。
 最近、さださんのファンになった方、昔々の曲も聴いてみてください。
 別の魅力に出会えると思いますよ。

坂崎幸之助が選ぶ、オフコースの名曲BEST3

2018年08月12日 |  My Favorite Artist
あの歳・この歌スペシャル
2018.8.12 BSジャパン




オフコースの名曲「さよなら」がヒットしたのは、私が高校2年生の時。
そのときつき合っていた彼女と大学進学で遠くに離れてしまう予感とオーバーラップして、心に沁みました。

大学生時代にはオフコースの過去の曲を探して聴きまくりました。
というか、オフコース・フリークの友達にレコードからカセットテープに録音してもらったものを、ウォークマン(当時はカセットだった)で聴いていたのですが。

オフコースの歌詞は、ハッキリ言って暗いです。
イジイジと男のエゴを歌っています。
でもそれを美しいメロディーとハーモニーでカバーし、切なさを深くしているのがオフコースの真骨頂。

数ある中で、私の好きな曲ベスト3は、

1.秋の気配
2.去って行った友へ〜T氏に捧げる〜
3.ワインの匂い


これらの曲を耳にすると、今でも胸がうずきます。
しかし時は過ぎ、今、「オフコースで好きな曲はなんですか?」とアンケートをとると、おそらく「さよなら」以降の曲しか出てこないような時代になりました。

と前振りはここまで。

「あの年この歌」は私の好きな番組でした。
何気なく聴いていた曲のバックグラウンドを的確に解説してくれるので、大いに頷きながら視聴しました。
番組で紹介されたCDセットも購入しましたし。

その番組をたまたま今夜見ていたら、テーマの「坂崎幸之助が選ぶ!オフコースの名曲BEST3!」のコーナーがやってきて、そのBEST3というのが以下の通り;

1.別れの情景I
2.でももう花はいらない
3.ひとりで生きてゆければ


驚きました。
みんな私好みの曲です。
坂崎さんと私のセンスが同調するとは。


<内容紹介>
“あの歌手”が選ぶ、“あの年”の名曲とは!?
貴重な映像と “この歌”と共に!そこから時代が見えてくる!

「あの年この歌」がスペシャル企画として帰ってきた!
ゲスト自らが選ぶ1960年~1980年代の名曲ベスト3を発表します。

「徳光和夫が選ぶ!ムード歌謡の名曲 BEST3!」
「坂本冬美が選ぶ!中島みゆきの名曲BEST3!」
「コロッケが選ぶ!ちあきなおみの名曲BEST3!」
「ジュディ・オングが選ぶ!テレサテンの名曲BEST3!」
「荻野目洋子が選ぶ!70年代フォークの名曲BEST3!」
「泉谷しげるが選ぶ!加藤和彦の名曲BEST3!」
「高見沢俊彦が選ぶ!1973年の名曲BEST3!」
「坂崎幸之助が選ぶ!オフコースの名曲BEST3!」

”音の錬金術師”、久保田麻琴

2018年07月08日 |  My Favorite Artist
 この名前を知ったきっかけは何だったか忘れました。
 民族音楽系の小泉文夫氏を検索しているときに目にとまったのかな。
 不思議な経歴の人物であり、とらえどころがありません。
 あえて言えば”音の錬金術師”でしょうか。
 そのインタビュー記事を見つけました。

久保田麻琴と日本の土着音楽文化〜祭祀音楽と伝統芸能に魅せられた音楽家を大石始がインタビュー(RED BULL MUSIC ACADEMY, By Hajime Oishi)

 そのキャリアは1970年代にサイケデリック・ロック・バンドを組んだことに始まり、細野晴臣氏の親友であり、THE BOOM やインドネシアの亜=ティストのプロデュースを手がけ、2000年代に入ってからはアジアとその周辺(バリ島、イスタンブール、ハワイ、ベトナム、バンコク、モロッコなど)をテーマに作品制作を行い、さらにその行動範囲を広げているようです。

 そして近年、その興味が日本の音楽文化に向いています。
 彼を突き動かしてきた音楽のエッセンスは、やはりその血が流れている日本にたどり着いたのでしょう。

 彼は、民俗学者:谷川健一氏に導かれるように沖縄周辺にある宮古列島を訪れ、そこで強烈な体験をしました。
 名もなきおばあが歌う労働歌に心を振るわせ、ひっそりと続けられていた神聖な祭祀に立ち会う機会を得たのです。
 そこには彼がたどってきたアジア的な雰囲気がありました。
 かれは宮古島の神歌を「かっこいい」と表現します。

 その集大成がドキュメンタリー映画『スケッチ・オブ・ミャーク』(大西功一監督作品)です。
 手に入れたので視聴する予定です。

 その後、彼は八重山民謡、盆踊り、阿波踊りなど日本の音楽文化を体験し、その魅力を伝える伝道師として活躍しています。
 日本の音楽文化を古くさいと捨て去ってきた昭和〜平成時代。
 しかし“琴線に触れる”“血湧き肉躍る”音楽は日本の中にあるはずです。

東京天水連 東林間阿波おどり 2015(YouTube)
2015 高円寺阿波踊り 東京天水連 パル演舞場〜ラスト(YouTube)

「大瀧詠一ソングブック」

2017年08月19日 |  My Favorite Artist
「大瀧詠一ソングブック」
(2015.3.29:NHK-BS)



<内容>
大瀧詠一の作品を紹介。大瀧に縁のある人々が、大瀧自身の楽曲や他のアーティストに提供した楽曲などをエピソードとともに語る。
出演者はいとうせいこう、清水ミチコ、太田裕美。また、小林旭、吉田美奈子、鈴木雅之らがコメント出演するほか、司会を萩原健太が務める。


 大瀧詠一は「はっぴいえんど」解散後に独立レーベル「ナイアガラ・レーベル」を立ち上げます。
 大瀧→大きな滝→ナイアガラ、という発想だそうです。
 所属アーティストは、「シュガーベイブ」(山下達郎、大貫妙子ら)ともう一つのグループ「ココナツ・バンク」(伊藤銀次ら)、そして大瀧の3つ。

 しかしレーベル立ち上げ直後に2つのグループは解散してしまい、大瀧は孤軍奮闘状態となってしまいました。
 1970年代、大瀧はしゃかりきになって半分実験的なアルバムを作り続けました。
 客の反応は悪く、鳴かず飛ばず状態が続きます。

 1980年代になり、プロデューサー大瀧詠一は、シンガー大瀧詠一をプロデュースする作品を作り上げました。
 それが永遠の名作「A LONG VACATION」。
 彼が高校時代に馴染んだアメリカンポップスの魅力を凝縮した歌の数々。
 30年以上経った今でも、私は夏になるとカーステレオで聴いてます。 

 数年後に姉妹作とも呼べる「EACH TIME」を発表して、また沈黙状態に戻りました。
 その後は1990年代、2000年代に1曲ずつ発表しただけ。

 その間、野球や落語を研究していたそうです。
 司会の萩原健太が「またアルバムを作ってくださいよ」とお願いしたら、
 「俺はもういい、後は鈴木雅之に任せた」とつぶやいたとか。

 私は山下達郎のFM番組「サンデーソングブック」にお正月になるとゲスト出演した「新春放談」を懐かしく思い出します。
 毎年、楽しみにして聴いていました。


 

<大瀧詠一>
1948年7月28日、岩手県生まれのシンガー・ソングライター/作曲家。
69年、細野晴臣らとはっぴいえんどを結成。73年に解散し、翌年にナイアガラ・レーベルを設立。
自身の作品以外にも、シュガー・ベイブやシリア・ポールらのアルバムを発表。81年、精緻に構築したサウンドを洗練されたポップ・センスで包んだアルバム『A LONG VACATION』が大ヒット。2001年、同アルバムをリマスタリングした再発盤が話題を呼ぶ。日本のポピュラー音楽に絶大な影響を与えた。2013年12月30日に急逝。65歳没。
[出身] 日本 岩手県江刺郡

プリンス追悼

2016年06月25日 |  My Favorite Artist
 米国のシンガーソングライター、プリンス(1958年6月7日 - 2016年4月21日)が亡くなりました。
 原因はミュージシャンにありがちな薬物の過剰摂取らしい。

 プリンスの思い出を少し書いてみます。

 私は大学生時代、アメリカンヒットチャートをひたすら追っていた時期がありました。
 中でも大学3年だった1984年はどっぷりつかり、小林克也さんの「ベストヒットUSA」を友達のアパートへ毎週欠かさず見に行きました(テレビを持っていなかったので)。
 全米1位になるヒット曲は底抜けに明るい曲が多い中、一際異彩を放ったのがプリンスの「When Doves Cry」(邦題は「ビートに抱かれて」)。
 そのほの暗いダークさに引き込まれました。
 確か1984年の年間チャートも1位だったはず。

 当時紹介されたインタビューでは、
 「肌の色ではなく音楽のクオリティーで評価される世界になって欲しい」
 と言っていたことが印象深く私の中に残っています。

 NHKのSONGSで紹介されたプリンスは、
・スティービーワンダーに憧れて、作詞作曲、楽器演奏をすべて1人で行った
・1人で孤独に自分で作ったミネアポリスのスタジオに籠もって多重録音で曲を作り上げた
・ビジネス優先のレコード会社と折り合いが悪く、一時期プリンスという名前を使えなくなった
 などのエピソードを紹介していました。

<YouTubeより>
□ 「Purple Rain
□ 「LET'S GO CRAZY
□ 「Batman - BatDance