私の音楽 & オーディオ遍歴

お気に入りアーティストや出会った音楽、使用しているオーディオ機器を紹介します(本棚8)。

欧米での「由紀さおりブーム」

2012年02月23日 | ポピュラー
 2/22のNHKクローズアップ現代で「世界を魅了する日本の歌謡曲~由紀さおりヒットの秘密~」が放送されました。

 日本の昔の歌謡曲が欧米では大人気だそうです。
 アメリカのジャズ・オーケストラ「ピンク・マルティーニ」が取り上げ、ブレイク後に由紀さおりさん本人との共演が実現し、欧米人を感動させた模様が映し出されました。
 バンドのリーダーであるピアニストは「由紀さんが歌う日本語には浮世絵のような漂う感覚があります」とコメントしていました。
 この人気に、誰よりも由紀さん自身が驚いている様子。

 番組では人気の秘密を音声学や心理学など多方面から解析を試みていました。
 フ~ン、なるほど、と頷いた箇所を記しておきます。

・母音中心の歌声:日本語は母音が多い言語です。母音は聞いていて落ち着くのです(母性的?)。
 ・・・私は常日頃から感じているのですが、イギリス英語の発音は子音が目立ち、聞いていてなんか落ち着かない。日本人にとって英語をマスターするハードルの一つとなっているような気がします。

・外国の歌に日本語を工夫して当てはめた歌謡曲:英語より単語/分節が少ないのでゆったりした歌い方になります。

・由紀さおりさんの独特の声質:彼女の声を分析すると8つの共鳴音が検出されるそうです。豊かな響きが証明されました。

 確かに、日本の歌謡曲は床屋さんで聴いているとうたた寝してしまうほど心地よいですね。
 いしだあゆみさんの「ブルーライト・ヨコハマ」が流行したのはわたしの幼児期でした。伊東ゆかりさんの「小指の想い出」とともに、父のステレオからよく流れてきた歌です。40年以上昔のことなのに身体が覚えていて、すべて歌えてしまいました。

 懐かしい。

ホイットニー・ヒューストンの訃報

2012年02月13日 |  My Favorite Artist
 一瞬、耳を疑いました。
 ホイットニーが死んだ!?

 彼女がデビューした当時のことをよく覚えています。
 歌手デビューは1985年(実はモデルとして既にデビューを果たしていた)、私は青春まっただ中の大学生でした。


デビューアルバム「そよ風の贈り物」

 当時小林克也氏による「ベストヒットUSA」を欠かさずに見てアメリカンチャートを追っていた私は、ホイットニーのデビューに衝撃を受けました。
 ゴスペルをベースとしたソウルフルで伸びのある、かつ透明感のある歌声、そして抜群のルックス。
 早速、街のレコード店でレコードを購入(CDではありません)しました。
 これはブレイクすると確信し、友達に「ねえねえ、この歌手すごいよ!」と宣伝(?)して回った記憶があります。予想通り、あっという間に人気と名声を獲得しました。
 その後、映画「ボディガード」にヒロインとして出演しさらに人気を博しました。

 彼女のお母さんはゴスペル歌手のシシー・ヒューストン。独特の歌い回しは母親譲りだそうです。母娘のデュエット・アルバムも発売されています。
 下記記事で湯川れい子さんは「ダイアナ・ロス~ホイットニー・ヒューストン~ビヨンセ」ラインに言及していますが、私はダイアナとホイットニーの間に知性派ソウルのロバータ・フラックを入れたいですね。

 有名になってから生活が乱れて、近年は大麻所持で逮捕されたり奇行が目立ったようです。
 名声に潰された一人かも知れません。

 実は彼女と私は同じ年で、誕生日も1ヶ月しか違わない。
 歌手で大成して幸せだったのでしょうか・・・違う人生もあったのになあ、などと考えてしまいます。

ホイットニー・ヒューストンさん急死 48歳
(2012.2.13:スポニチ)
 グラミー賞を6度受賞した米歌手ホイットニー・ヒューストンさんがロサンゼルスのホテルで倒れているのを発見され、11日午後3時55分(日本時間12日午前8時55分)死亡が確認された。48歳だった。死因は不明。主演映画「ボディガード」の主題歌など大ヒット作を連発する一方、最近は薬物依存が伝えられていた。第54回グラミー賞の授賞式前日の悲劇。式で追悼コーナーを設けることも急きょ決まった。
 ホイットニーさんが倒れていたのは、ビバリーヒルズにあるビバリー・ヒルトンホテルの客室。発見したのはくしくも、自身のボディーガードだった。地元警察は「事件性はない」と発表した。
 ホイットニーさんは、きょう12日(日本時間13日)にロサンゼルスで行われるグラミー賞授賞式に合わせて現地入り。記念パーティーなどに出席する予定だった。ここ数日はホテルのプールでくつろぐ姿が目撃され、9日にはハリウッドのクラブでステージに飛び入りし歌声を披露していた。
 歌姫の急死に音楽界にも衝撃が走った。友人の歌手マライア・キャリー(41)はツイッターで「素晴らしい歌声は絶対に忘れない」と追悼。グラミー賞主催者は急きょ、授賞式のプログラムを変更し、歌手ジェニファー・ハドソン(30)がヒット曲を歌う追悼コーナーを決定した。
 1985年にデビューすると、透き通る高音ボイスを生かしてヒットを連発。「オールウェイズ・ラブ・ユー」はビルボードシングルチャートで14週連続1位を記録。同曲を収録した映画「ボディガード」(92年)のサントラは、日本でも当時の洋楽史上最高の280万枚を売り上げた。ケビン・コスナー(57)と共演した同映画も全世界で大ヒットした。
 92年に米歌手ボビー・ブラウン(43)と結婚。翌年には長女を出産した。90年代中盤になると、音楽より私生活で話題を集め、ボビーの薬物乱用や家庭内暴力などで度々、離婚危機と報じられた。自身も00年、ハワイの空港で大麻所持が発覚。04年には薬物依存の更生施設に入り、06年に離婚が成立した。
 来日公演は7度。ただ日本人スタッフに気さくに接することはなく、97年には、一緒に来日したボビーが約6000万円の結婚指輪を首都高速から投げ捨て、ホイットニーさんの指示でスタッフが周辺を捜し回ったこともあったという。
 死因について日本の音楽関係者は「睡眠薬など違法でない薬の中毒という可能性が高いのでは」と話している。

◆ホイットニー・ヒューストン
 1963年8月9日、米ニュージャージー州生まれ。10代のころからソウル歌手の母親シシー・ヒューストンと舞台に立った。22歳の時(85年)に「そよ風の贈りもの」で歌手デビュー。公式サイトによると、アルバムやシングル、ビデオを合わせた売り上げは1億7000万枚。

▼音楽評論家湯川れい子さん
 米ポップスの王道をいきながらも、どこかにゴスペルのにおいがした。ダイアナ・ロスが作ったその流れはホイットニーさんが引き継ぎ、ビヨンセへと渡っている。デビューアルバム発売後の来日会見で、母親が「17歳でスカウトされたが成人するまでデビューを待たせた」と話したときに、横で恥ずかしそうにしていた姿が思い出される。喉には人一倍気を使っていて、いつもハチミツ入りの紅茶を飲んでいた。あの伸びやかな声は誰もが出せるものではないだけに、急死は本当に残念です。



<YouTubeで視聴可能なホイットニー>
オール・アット・ワンス
I Will Always Love You
Greatest Love Of All

SONGS~山本潤子~

2012年02月03日 |  My Favorite Artist
 2月1日のNHKの音楽番組「SONGS」は山本潤子さん特集でした。

 いわずと知れた日本を代表するシンガーあるいはヴォーカリストで、その歴史はなんと1970年以前に始まります。
 当時結成した「赤い鳥」というグループで参加した民間音楽コンクールで優勝しプロの道へ。5年間の活動後、メンバーを3人にしぼって「ハイファイセット」を結成し、ユーミン(当時は松任谷ではなく荒井由実)から提供された楽曲をシンプルながら暖かみのある深い声で歌い上げて人気を博しました。
 彼女の声を聞いていつも不思議に思うのですが、高音は裏声にも聞こえるものの、いつから裏声になったのかよくわからないほど自然に高音へ繋がるのです。
 ふと気づけば、音楽生活40年以上。
 声の伸びは少々衰えたものの、暖かい歌声は今も健在です。

 オフコースの小田和正さんとチューリップの財津一夫さんとは「戦友」と呼べるほど古くからの深い仲。
 音楽コンクールで優勝した際、小田さんと財津さんも出場していたのでした(小田さんは準優勝、財津さんは・・・?)。3人ともに、驚異的な芸歴の長さです。
 小田さんの「クリスマスの約束」に必ずと言っていいほどこの二人が登場するのは、そんな歴史があるからなのですね。

 さて、いくつか楽曲が紹介されて順子さんが歌を披露してくれました。
 私の大好きな曲も含まれています(YohTubeに動画が見つかった曲はリンクしました)。

海を見ていた午後
 ユーミンの曲の中で「朝日の中で微笑んで」とともにお気に入りの曲。
 横浜に現在も実在する「ドルフィン」というレストランに、このたび順子さんが初めて訪問するという企画が秀逸でした。
 テーブルに座り海を眺め、ソーダ水越しに貨物船を目で追い、紙ナプキンに字を書いてにじみ具合を確かめて・・・微笑ましい光景。
 「あのとき目の前で思い切り泣けたら」という歌詞を聴くたびに、時間と空間を忘れて別世界にトリップしてしまう私です。
 恋はちょっとしたすれ違いで思わぬ方向へ展開し、空中分解することもある。
 20年前のあのとき、彼女が素直な涙を見せてくれたら・・・違う人生があったかもしれないなあ。

卒業写真
 誰もが知る名曲ですね。
 私はこの曲を聴くたび、胸の深いところが疼きます。
 2番の歌詞に「あなたはわたしの青春そのもの」というフレーズがありますが、今から四半世紀前、当時つき合っていた彼女が「あなたは私の青春でした」とこの歌詞通りの言葉を手紙に記して私の前から去った瞬間を鮮明に思い出してしまうのです。


 ああ、想い出が溢れて止まらない・・・遠い昔に封印していたはずの感情が目覚めてしまう。


NHKの番組紹介より

 SONGS第206回は、山本潤子が登場。『赤い鳥』『ハイ・ファイ・セット』を通じて、日本の音楽シーンを代表する女性ボーカリストとして活躍を続けている。プロデビューするきっかけとなった、1969年のライト・ミュージック・コンテストに同じく出場したアマチュア時代からの音楽仲間、小田和正や財津和夫のインタビューをまじえ、懐かしの名曲とともに当時の熱気を振り返る。

 1949年奈良県生まれ。1969年に『赤い鳥』を結成、ライト・ミュージック・コンテスト全国大会に出場、グランプリを獲得する。1970年プロデビュー、翌年発売したシングル「竹田の子守唄」が大ヒットする。1974年解散後、『ハイ・ファイ・セット』を結成、翌年「卒業写真」でデビュー。松任谷由実(荒井由実)の作品をカバーするなど数多くの名曲を残し、1977年には大ヒットした「フィーリング」でNHK紅白歌合戦に初出場。1994年に解散、その後ソロ活動を開始する。その一方でコーラスユニット『April』『Song for Memories』を結成するなど様々なアーティストと共演、2年前からはソロコンサートツアーも始動している。

冷たい雨
もとは1975年に発売された、バンバンのシングル「『いちご白書』をもう一度」のB面に収められていた、荒井由実作詞作曲の作品。1976年に、良い曲だからと改めて『ハイ・ファイ・セット』がカバー、シングルとして発売した。

翼をください
 1971年に発売された『赤い鳥』のシングル「竹田の子守唄」のB面に収められた曲。作曲の村井邦彦は、『赤い鳥』の才能をいち早く見出し、プロデビューに導いたプロデューサー。『赤い鳥』のコンサートでは最後に観客と一緒に盛り上がって歌われた歌で、解散後の1976年には音楽の教科書に掲載されるようになる。それ以来、世代をこえた名曲として広く知られるようになる。

海を見ていた午後
 1974年に発売された荒井由実のアルバム「MISSLIM」に収録された1曲。歌の舞台は、横浜のレストランがモデルになっていると言われる。『ハイ・ファイ・セット』は1975年発売のアルバムでカバーしている。当時ニューミュージックと呼ばれた、新しいユーミンの歌の世界が凝縮された1曲。

卒業写真
 1975年に発売された『ハイ・ファイ・セット』のデビュー曲。詞・曲は荒井由実。ユーミン自身は、4ヵ月後に発売したアルバム「COBALT HOUR」でセルフカバーしている。当時最も注目されていたシンガーソングライター・荒井由実の名をさらに広めるとともに、『ハイ・ファイ・セット』の新しい世界が表現された、色あせない名曲。