いちご畑よ永遠に(旧アメーバブログ)

アメーバブログ「いちご畑よ永遠に(旧ヤフーブログ)」は2023年7月に全件削除されましたが一部復活

北海道枝幸町 オホーツクミュージアムえさし②司馬遼太郎「街道をゆく オホーツク街道」

2025年02月12日 09時34分47秒 | 北海道

オホーツクミュージアムえさし。枝幸町三笠町。

2022年6月18日(土)。

 

司馬遼太郎「街道をゆく オホーツク街道」から

1992年1月2日夕刻、司馬遼太郎は千歳空港に着いた。翌3日急行電車で稚内に向かい、オホーツク街道を南下する取材旅行を知床のウトロまで続けた。

安野光雅画伯と北海道開拓記念館学芸部長の野村崇氏も同行した。目梨泊(めなしとまり)遺跡を見学したのは1月6日で、「佐藤隆広係長」というタイトルで週刊朝日に掲載された。「札幌生まれだが、秋田のような京美人顔」と司馬は表現をしている。

「発掘調査事務所」で蕨手刀を見た司馬は「キャデラックを持っていたようなものですな」と言うと佐藤氏は「いや、それ以上のものでしょう」と答えている。青銅製帯金具は大和政権からの賜であれば「従七位の位ではないでしょうか」と佐藤氏は言う。

枝幸の町に戻ると、食堂で、安野光雅は「てんどん」と、ためらいもなく命じた。これに対し、佐藤氏はささやかなものを注文した。医者から脂を禁じられているという。「過労じゃないでしょうか」と、司馬が聞くと「だと思います」げんに心臓発作で倒れたことがあり、いまもポケットにニトログリセリンを入れているという。

 

北海道考古学会だより 65号

本学会会員で、北海道考古学、特にオホーツク文化の解明において優れた業績を積まれてこられた佐藤隆広氏が、平成11(1999)年9月24日(金)に亡くなられました。享年50歳

佐藤氏が調査を担当された目梨泊遺跡は、オホーツク文化を研究する上では欠かすことのできない重要な遺跡であり、今後のご活躍に多くの関係者が注目を集めているところでした。ここに慎んでご冥福をお祈り致します。

 

故佐藤隆広君のこと  鶴丸俊明

 佐藤隆広君が鬼籍に入られて、はやくも半年になる。友人を代表して涙ながらに弔辞を読んだのは99年9月27日のことだが、その1週間前には、畑宏明氏とともに見舞って元気な顔に安堵していたし、その折には他人の体の心配すらしていたので、この訃報には呆然とした。

 氏は72年に駒沢大学を卒業された後、斜里町のしれとこ資料館網走郷土博物館で資料整理に従事し、さらに乙部町教育委員会では大沼忠春、松田猛、大島直行の各氏らと元和遺跡・栄浜遺跡の発掘に携わって大部の報告書を残されている。76年から北海道教育委員会の調査補助員として新千歳空港予定地内美沢川流域の調査に従事した後、78年には枝幸町に迎えられ、ホロナイポ遺跡やホロベツ砂丘遺跡、目梨泊遺跡の発掘で大さな成果を残されたことは、周知のところである。

 私は69~71年の端野町広瀬遺跡の調査以来の付き合いで、特に斜里・網走時代のことは詳しい。裸電球がぶら下がる博物館の宿直室で独り夜更けまで仕事をしていた姿は、今も鮮明だ。最も苦しい時代だが、また可能性を信じてがむしゃらに頑張った時代でもあった。病床で大学以来の歴史を語ってくれたが、そのくだりは、考古学の出発点での貴重な体験として終生大事にされていた話しっぷりであった。

 97年に直腸ガンと診断され、2回の手術を経て2年以上も病と闘って逝った。壮絶な日々の中で、しかし弱音を吐くこともなく最後まで明るく振る舞った姿に、彼らしさを感じたのは、私だけではないだろう。たくさんの先輩に愛され、たくさんの後輩に慕われた度量の大きな人だった。その笑顔を思い出しながら、オホーツク考古学に身を捧げ、オホーツクミュージアムえさしの開設に努力された氏のご冥福を心よりお祈りする。

北海道枝幸町 オホーツクミュージアムえさし①デスモスチルス 絶滅した海棲哺乳類