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メキシコ 世界遺産・パレンケ パカル王の墓とヒスイの仮面 メキシコシティ 国立人類学博物館

2023年08月10日 17時46分13秒 | 旅行

パカル王の墓へ下る階段入口。第10室。マヤ。メキシコシティ。メキシコ国立人類学博物館。

2014年11月11日(火)。

マヤ文明はBC1000年頃から16世紀まで繁栄した都市文明であったが、統一王国はなかった。古典期後期(600~800年)には大都市が周囲の中小都市を統括して八つほどの広域国家が形成されたのちに、60から70ほどの小都市国家が林立していた。

パレンケもマヤ文明の古代都市で、マヤ低地の西端にあたるメキシコ南東部のチアパス州に位置し、7世紀に最盛期を迎えた。パレンケ遺跡の碑文の神殿から発見されたパカル王の墓が有名で、復元展示されている。

幼児の甕棺墓。

復元されたパカル王の墓。

1952年メキシコの考古学者アルベルト・ルスが「碑文の神殿」の地下室に辿り着き、室内の壁面にはめ込まれていた巨大な石板を取り外したところ、鍾乳石の垂れ下がる広い洞窟のような部屋がその向こう側に確認された。そこには殉死者と目される数体の遺体に加え、肖像画やマヤ文字、また生命樹の図柄の浮彫が施された石の蓋、そしてその下に石棺が埋もれており、数多の装飾品を脇にした遺体が内部に発見された。

翡翠の仮面をまとったこの遺体は、7世紀に在位したパカル王(位615~683年)と解明された。

マヤの古代都市遺跡にはピラミッドが多く見られるが、それは頂上の神殿を置くための台座に過ぎないと考えられてきた。この発見はその定説を覆し、当時の考古学界に大きな旋風を巻き起こすこととなった。

パレンケ王のヒスイの仮面。ルスがパカル王の石棺を発見した時、王の顔には豪華なヒスイの仮面がつけられていた。ヒスイをモザイク状に組み合わせた仮面で、ヒスイの緑色は、マヤ人にとって最も高貴な色とされ、祈りと運命のしるしであった。

若干12歳で王位を継承したパカル王は68年の治世を誇り、パレンケは目覚ましい発展を遂げた。

パカル王墓に埋葬された殉死者たち。


世界遺産パレンケ遺跡 メキシコ旅行記から ③水源の滝 遊歩道とマヤ人の住居跡

2023年08月10日 17時28分45秒 | 旅行

世界遺産パレンケ。神殿群から博物館方向へ下る遊歩道入口の石橋。

2014年11月17日(月)。

十字架の神殿の見学を終え、北へ遊歩道を進む。トイレの左横に下の舗装道路と博物館方向へ下る遊歩道の入口となる石橋がある。

歩き方には安全でないような記述があるが、歩行者は適度にいるので安全、マヤ文明らしい熱帯ジャングルの雰囲気を体感でき感動した。マヤ人がこの都市を「大いなる水」を意味する「ラカム・ハ」とよんでいたことが実感できる

世界遺産パレンケ。10分ほど下ると下に滝が見えてくる。

滝の名は「クインーズ・バス」とよばれる。「こうもり川」とオトルム川が合流する地点に滝はあった。滝壺は人々が体を冷やし、入浴する場所であった。

世界遺産パレンケ。滝。

世界遺産パレンケ。滝つぼの下にある吊り橋を渡る人を上から見る。

世界遺産パレンケ。滝の横にはコンプレックスBとよばれる平坦地があり、5棟ほどの建物群跡の石積みが残っているパレンケ末期の770年から850年頃の住居跡という。コウモリの建物群ともよばれる。建物内には上層のレベルと下層のレベルをつなぐ階段があった。

いくつかの建物からは人形形の塑像を伴う墓が床下から見つかっている。3段のレベルに建てられた建物群の上のレベルの建物は蒸し風呂として使用されていた。熱した石に水をかけて蒸気を発生させる方式で、鉱物やアロマオイルも使われた。

世界遺産パレンケ。石積みの建物の跡。

世界遺産パレンケ。住居の間を通る遊歩道。

世界遺産パレンケ。吊り橋。

世界遺産パレンケ。吊り橋から、上流の滝壺。

世界遺産パレンケ。吊り橋から、上流の別の水路。

世界遺産パレンケ。吊り橋から、下流を見る。

マヤの熱帯ジャングルにふさわしい美しい滝に感動して、下に5分ほど下ると、ミニバスが通る舗装道路に出る。ここにも、パレンケ遺跡の入場ゲートがあり、入場する見学者もいる。

博物館は月曜日休みのようだが、係員に尋ねると、開いていると返事をしたので、3分ほど歩いて博物館の敷地へ着く。博物館はやはり休みだったが、自販機のコーラを購入し、テーブルで休憩した。遺跡入場時にザックを入口に預けたので、回収しに行かなければならない。かなりの坂道を登らねばならないが仕方がない。下の入場口から数分歩いた地点に、植物園主体のミニ博物館があった。

世界遺産パレンケ。植物園主体のミニ博物館。入場無料。男性職員のどこの国から来たかと尋ねられた。展示コーナーを眺めて、植物園へ向かう。

世界遺産パレンケ。植物園主体のミニ博物館。展示コーナーにあるパレンケ遺跡の簡単なジオラマ

左下がパレンケの町。点線は遺跡保護区の境界線。山の中腹にパレンケ遺跡の神殿群があることが分かる。その上方部から湧水が小川となって流れているのだろう。ある意味、山城に似て、防御しやすい地形である。滝の脇を下った遊歩道はさしずめ、大手道であったのだろうか。

世界遺産パレンケ。植物園主体のミニ博物館。熱帯植物。

世界遺産パレンケ。ミニ博物館の先にあった緑地。馬が草を食べていた。

15分ほど坂道を登り、早朝に入場したゲートに着いた。預けたザックを回収した。とても暑いので、ここでもコーラを露店で購入して飲んだ。ミニバスに乗り、パレンケのバスターミナルへ帰った。町には見所もないので、現代的なバスターミナルで17時30分の発車まで過ごした。オアハカまでの運賃は816ペソ。オアハカには翌朝の8時30分頃到着した。


世界遺産パレンケ遺跡 メキシコ旅行記から ②十字架の神殿

2023年08月10日 17時11分26秒 | 旅行

世界遺産パレンケ。宮殿の南側から碑文の神殿方向。2014年11月17日(月)。

宮殿の南側を降りる。中段にも地下室が残っており、覗き見ることができる。

宮殿東側を流れる水路を渡る橋。水路は手前の高い南側から北側の低地に流れている。橋を渡り、坂道を登って、小高い丘の上にある十字グループとよばれる神殿群へ向かう。

パレンケはマヤ低地西端、チアパス高地山腹の丘陵上に立地する。パレンケとはスペイン語で柵の意味だが、マヤ人はこの都市を「大いなる水」を意味する「ラカム・ハ」とよんでいた

山腹から湧き出る水が都市や近郊に小川として流れ、人々に飲み水を供給した。宮殿近くの小川は、古典期に建造された石造の水路を通り、長さ55mのマヤアーチの地下水路へと今も流れている。川沿いに歩くと、美しい滝も堪能できる。

太陽の神殿。神殿内部の壁面に太陽のシンボルとされた楯と槍からなる戦いの神が彫刻されていたことから命名された。

パカル王の息子12代キニチ・カン・バフラム王(684~702年在位)が建てた神殿群は十字グループと呼ばれる。パカル王が80歳と長命だったため、息子のキニチ・カン・バフラム王は即位した時、既に48歳になっていた。彼の治世は18年間と決して長くはなかったが、十字架の神殿・葉の十字架の神殿・太陽の神殿という3つの神殿を建てた。

太陽の神殿。頂上神殿内のレリーフ。中央に楯と槍、右に成年の王、左に少年時代の王が彫刻されている。

太陽の神殿から葉の十字架の神殿を眺める。左は十字架の神殿の基壇階段部。

葉の十字架の神殿。マヤアーチの入口と、上部の左右にあるトウモロコシの葉と人間の首を表す窓が特徴。

内部にはトウモロコシが十字架の形で表されているレリーフがあり、名前の由来となっている。

葉の十字架の神殿。上部からの風景。左に太陽の神殿。右に十字架の神殿。中央奥に宮殿。

葉の十字架の神殿。

十字架の神殿。この神殿群の中で最大の神殿。キニチ・カン・バフラム王の墓所という説もあるが、発見されていない。

十字架の神殿。石段を登る。

十字架の神殿。頂上には二つの部屋がある。内部の石板に、神殿の名前の由来となった十字架のような形が彫られていた。実際には彫られているのは十字架ではなく十字状に表象された世界樹のセイバであり、その石板は国立人類学博物館に現在は保管されている。

十字架の神殿キニチ・カン・バフラム王のレリーフとされる。

十字架の神殿。煙草を吸う老人のレリーフ。喫煙を描いた最古のレリーフとされる。キニチ・カン・バフラム王のレリーフと対になっている。

十字架の神殿。煙草を吸う老人のレリーフ。

左を向いた人物が煙管のようなもので煙草を吸っている。

十字架の神殿頂上から宮殿と碑文の神殿方向を眺める。その先には熱帯のジャングルが果てしなく続いている。

十字架の神殿。頂上から宮殿と碑文の神殿方向手前左に太陽の神殿、その右隣の神殿14は弟の13代キニチ・カン・ホイ・チタム王が建てたものという。 キニチ・カン・ホイ・チタム王は702年に即位するが、711年に南65kmにある都市トニナとの戦争に敗れて捕虜となり、パレンケは衰退していった。764年にパカル王の曾孫が16代目王として即位する。記録として知られる最後の王であり、土器に刻まれた碑文の最後の日付は799年に相当する、パレンケは10世紀には放棄された。

宮殿の東側外壁。十字架の神殿から下って、遊歩道を北へ進む。ジャングルの雰囲気を体感できるらしいので、北へ川沿いの遊歩道を下り、博物館方向へ向かうことにした。

 


世界遺産パレンケ遺跡 メキシコ旅行記から ①パカル王 赤い女王

2023年08月10日 16時36分00秒 | 旅行

頭蓋骨の神殿。世界遺産パレンケ遺跡。

ゲートから坂を登ると、神殿群に出る。 右手手前から頭蓋骨の神殿、茅葺屋根のある神殿13、碑文の神殿と続く。

メキシコを2014年11月10日(月)から12月3日(水)まで個人で旅行した。メキシコの旅行適期は11月の乾期から始まる。3週間程度を期間とし、類似した世界遺産は省くことにして、目的地と行程を決め、航空券をネットで探した。直行便のアエロメヒコを探すと、提携代理店経由が最安価格だったので、7月末に153,780円で購入した。

メキシコシティー及び周辺、ユカタン半島方面、中央高原方面に分けて行程をほぼ決定し、移動など不安なユカタン半島を前半にすることにした。最初の2日間をメキシコシティーとして、バス予約を試みるなどとし、11月14日にメキシコシティーからカンクンへ飛んで、バスでメキシコシティーへ戻る行程とした。ネットで探すと、ボラリス航空が安かったので8月初めに11391円で予約した。歩き方にメキシコシティーとカンクンに日本人宿が記してあるので、利用することにした。メキシコシティーは「サンゲルナンド館」を拠点とし、カンクンは「カサ吉田」とし、メールで予約した。残りの宿泊地はYHを優先し、ない所はネットで探して予約した。バスは閑散期なので、現地で何とかなると思い、無理に日本で探すことはしなかった。

メキシコシティーは結構分量が多く、6日ほどかけることとした。世界遺産ルイス・バラガン邸はメールで予約をしたが、返事がなかったので、直接押しかけて見学した。

旅行費用は宿代が1泊2~3千円台で、あとはバス運賃が高くなったが、航空運賃を含んだ合計で33万円程度。

2014年11月17日(月)。メリダから前日22時発のADO(アデオ)夜行バスに乗り、ユカタン半島の付け根にあたる西のチアパス州パレンケのバスターミナルに6時30分に到着。ついでに当日夜のオアハカ行き夜行バスの乗車券を購入。メリダで買ったパンで朝食を済ませた。

世界遺産パレンケ遺跡行きのミニバスを捜し、町の中心方向へ数分歩いたところで、遺跡行きのミニバスに遭遇して乗車。運賃20ペソ。途中停車して、遺跡公園の入場料28ペソを支払う。丘陵地帯に入って、博物館地区を右に見ると、急な九十九折の坂道を登り、8時30分頃に終点の遺跡入口に着いた。観光客は多い。チケット売り場でザックを預け、帰りに15ペソを払った。

 

世界遺産パレンケ遺跡は、ジャングルに囲まれたマヤの古代都市遺跡で、メキシコシティーの国立人類学博物館の至宝であるパカル王の翡翠の仮面が発見された遺跡として有名である。

また、1950年代まではメソアメリカのピラミッドは頂上の神殿を置くための台座に過ぎないと考えられてきたが、1952年メキシコの考古学者アルベルト・ルスがパレンケのピラミッド「碑文の神殿」の内部に、パカル王の墓を発見し、エジプトのピラミッドと同じく王墓であることを明らかにして古代史研究のターニングポイントとなった遺跡である。

頭蓋骨の神殿。階段を登った頂上中央にマヤアーチの入口があり、その手前の柱の根元に頭蓋骨のレリーフがある。

頭蓋骨の神殿。前歯が大きいことから、ウサギの頭蓋骨といわれるレリーフ。

神殿13。頭蓋骨の神殿の左隣にある。1994年に「赤い女王」とよばれる被葬者の墓が発見された。茅葺屋根の下にピラミッド内部に入る通路がある。

神殿13。マヤアーチの下の通路を中に入る。

神殿13。通路を進む。

神殿13赤く染まった石棺。1枚岩を加工した石棺には40歳くらいの高貴な女性が、ヒスイ製品などの豪華な副葬品とともに葬られていた。遺体は水銀朱で赤く染められていたので「赤い女王」とよばれている。被葬者はDNA分析の結果、パカル王の肉親ではないことが分かった。パカル王の妻という説もある。

「赤の女王」が誰なのかについては、パカル王の母サク・クックという説が有力だが、パカル王の妻という説もあり、まだ決着はついていないとのこと。

パレンケには女王が存在した。パレンケの最盛期はパカル王とその息子のキニチ・カン・バフラム王が治世した7世紀である。碑文の解読によれば、初代クック・バフラム王は431年から435年まで統治したという。7代目に男性の継承者がいなかったため、イシュ・ヨフル・イクナル女王が8代目王として即位した。女王は604年に亡くなるまで、20年余り統治したが、599年に強大なカラクムル王朝との戦争に敗北した。

11代目として12歳で615年に即位したのがパカル王で683年に亡くなるまで、68年間パレンケ王朝を統治して、パレンケ王朝の黄金期を築いた。

神殿13。内部の部屋。

神殿13。階段部。

碑文の神殿。高さ25mで、パレンケで最大の神殿ピラミッド最上部にパレンケ王朝200年の歴史を刻んだ600以上の碑文の石板があったことから碑文の神殿とよばれる。

パカル王在世中の675年に着工し、王の死後、息子の12代キニチ・カン・バフラム王(684~702年在位)が、父の遺体をマヤ文明最大の石室墓(長さ10m、幅4m、高さ7m)に葬った。

パカル王の石棺を発見した時、王の顔にはヒスイをモザイク状に組み合わせた豪華な仮面がつけられており、現在、メキシコ人類学博物館に展示所蔵されている。

この神殿は立入り禁止となっている。

宮殿。碑文の神殿の北西にあり、王族の住居とされる遺跡の中心的建物。基壇の広さは100m×80m。現在見ることのできる宮殿はパカル王時代に建築が始まり、後の王たちが増改築を繰り返したものという。

マヤ建築の中でも他に類例のない、4階建て高さ15mの搭屋が特徴である。塔屋は、天体観測塔とされるが、物見の塔の役割もあったと推定される。

  近くの小川を利用して水洗トイレやサウナなども設置されており、スペインのコロニアル建築を思わせる宮殿上部の中庭や、闘いの歴史を刻んだ壁画、マヤアーチの回廊など見ごたえがある。

西側の基壇から上部へ登る。

宮殿。基壇の上から碑文の神殿を眺める。

宮殿。マヤアーチの回廊。

宮殿。パカル王が発案したといわれるT字型の窓。

宮殿。「捕虜の中庭」とよばれる。ここは捕虜が見せしめにされ、王に引き渡された場所といわれ、失意の捕虜達のレリーフがある。宮廷訪問者の接待所としても使用された。

宮殿。「捕虜の中庭」。パカル王は、パレンケの東70kmにあるサンタ・エレナとの戦争に659年に勝利した。パレンケ軍は、宿敵カラクムルと同盟を結んでいたサンタ・エレナの王と6人の貴族を捕虜にした。

「捕虜の中庭」にはパカル王の勝利を記録した碑文の階段とひざまずいた6人の捕虜を描いたレリーフがある。

宮殿。「捕虜の中庭」。6人の捕虜を描いたレリーフの左半分。

宮殿。捕虜の中庭。建物基壇部分のレリーフ。神々の像という。

宮殿。捕虜の中庭。建物基壇部分のレリーフ。

宮殿。捕虜の中庭。建物基壇部分のレリーフ。

宮殿。天体観測塔。4階建ての塔の高さは15m。

 壁面が東西南北を指していることや、4階に星の観測に使ったと思われるテーブルがあること、踊り場に金星を表す文字があることなどにより、天体観測塔と推定されている。

この塔から見ると冬至の日には太陽が碑文の神殿に沈む。

宮殿。「楕円形の碑石」。パカル王の即位儀式のレリーフ。塔に隣接した建物の中にあるが、現在は金網で保護されていて、良く見ることができない。

654年に落成した部屋の壁に、この碑石が嵌め込まれている。パカル王が双頭のジャガーの玉座に座り、摂政であった母から王冠を受け取っている。

宮殿。戦闘指揮官たちの中庭。塔の左側に建物に囲まれた小さな広場。タバスコ州サンタ・エレナからの貴族たち、タバスコ州ポモナの王が663年に死亡したことなどの碑文が残る。

宮殿。南東部にも多くの部屋が残る。