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新宿区立漱石山房記念館

2025年01月17日 08時58分17秒 | 東京都

新宿区立漱石山房記念館。入口。新宿区早稲田南町。

2025年1月4日(土)。

本日は秩父宮ラグビー場での観戦がメインだが、12時試合開始なので、その前に新宿区立漱石山房記念館、終了後には文京区立森鷗外記念館を見学することにした。両館ともいずれ見学するつもりで、1年前からアクセスなどをHPで見ていたが、面倒そうだったので後回しにしていた。

東京メトロ東西線の早稲田駅1番出口から案内に従って坂を下り、早稲田小学校の横を通ると、一本道なので迷うことなく徒歩約10分で9時40分ごろ記念館に着いた。すでに、玄関前に3人連れが並んでいたが、開館の10時には15人ほどが並んでいたのは不思議だった。

内部は一部を除き基本的には撮影禁止である。

新宿区立漱石山房記念館は、夏目漱石の生誕150周年を記念して東京都新宿区が開設した記念博物館で2017年(平成29年)9月24日に開館した。

漱石が生まれ育ち、その生涯を閉じたまち新宿区には、漱石ゆかりの地が数多くある。漱石が生まれた現在の新宿区喜久井町という町名は、当時このあたりの名主であった漱石の父・直克が、夏目家の家紋「井桁(いげた)に菊」にちなんで名付けたものである。

「漱石山房」とは、夏目漱石が明治40(1907)年9月から、亡くなるまでの9年間生活した牛込区早稲田南町7(現 新宿区早稲田南町7)の借家にあった、それぞれ10畳の書斎と客間を指す。この家からは、『三四郎』『こゝろ』『道草』など数々の名作が生み出された。

漱石は、明治36(1903)年1月、ロンドン留学から帰国した後、漱石山房に住むまで、2度ほど転居している。最初は鏡子夫人の実家の中根家に同居した後、同年3月から駒込千駄木町(現文京区向丘2)の通称「猫の家」に住み、『我輩は猫である』『坊ちゃん』『草枕』など多くの作品を執筆した。森鷗外もかつて住んだ家として知られ、小説「道草」の主人公・健三の家のモデルとされている。この「猫の家」は現在、愛知県の博物館明治村に保存移築されている。

次に、明治39(1906)年12月、駒込西片町(現文京区西片町)に転居した。ここには短期間しか住まなかったが、のちに漱石を慕う魯迅が住み、「伍舎」と名付けている。「趣味の遺伝」の主人公の家で、「三四郎」の広田先生の引っ越し先のモデルとされている。

漱石はここまで自らの書斎を「漾虚碧堂」と名付けていたと思われる。

そして、明治40(1907)年9月29日、夏目漱石は早稲田南町7の借家に賃借人として入居した。「漱石山房」の誕生である。

差配人は町医者の中山正之祐、家の所有者は歌人で病院長の阿部龍夫であった。敷地面積340坪の中央に建つ60坪の平屋建ての和洋折衷建築の部屋数は7室で家賃は35円であった。

この住宅について、松岡譲は「ああ漱石山房」の中で

「この家は、元来、三浦篤次郎というアメリカがえりが、明治三十年頃に建てた家だそうで、当時の文化住宅とでもいうのであろう、一風変った家であった。その後、銀行の支店長が住んでいたのが阿部氏の手に移り」と書いている。

三浦篤次郎という人物については、今まであまり情報がなかったが、当館ボランティアの興津維信氏の調査によって、福島県須賀川出身の自由民権家で、福島県議になりながら2度ほど渡米し、明治29(1896)年には愛国生命の取締役になっていたということが分かった。

夏目漱石は漱石山房で9年間暮らし、大正5(1916)年12月9日に亡くなった。書斎は一時片づけられ、漱石の遺体が安置され、祭壇が設けられた。12月12日の葬儀が終わった後、30日には書斎は元の状態に戻され、机上には、未完となった「明暗」の原稿で「189」と記された原稿用紙の他、万年筆、眼鏡入れ、象牙製のペーパーナイフなどが置かれた。座布団も敷かれ、絵画の額等も元通りに戻された。

一方、客間の方は、霊壇式に写真を飾り、その側には普段は黒い布で蔽ったデスマスクを安置し、常に花を取り換え、いつでも香を焚ける仕組みとなった。

大正9年(1920)、この家と敷地は夏目家が買取り、母屋は増改築されたものの、漱石が使用した書斎、客間、ベランダ式回廊のみ敷地内に曳家をして残し、そのままの状態で保存された

大正12(1923)年9月1日の関東大震災では、ほとんど無傷だったが、危機感をいだいた松岡譲は、建物ごと移築保存して財団法人に管理させようと漱石門下生の主なメンバーに提案した。しかし、なかなか議論はすすまず、昭和6(1931)年11月、夏目家は西大久保に転居し、漱石山房はそのままに管理人を置くことになった。

この後、戦時体制の強化により、漱石山房は軍関係の寮となったこともあったようで、このままでは漱石の書斎は荒らされ、建物も朽ちてしまうと門下生たちは危機感を持ったものの、戦時中のため、当時はこれといった有効な手だてもなく、小宮豊隆らの努力により、辛うじて蔵書だけは東北大学附属図書館への移管という形に落ち着いたが、昭和20(1945)年5月、漱石山房は山の手空襲により焼失してしまった。

戦後その敷地の半分は「漱石公園」、残る半分は区営住宅(元は都営住宅)となった。2011年(平成23年)、この区営住宅の立て替え・移転を機に、区では「漱石公園」の敷地と合わせてかつての「漱石山房」を再現した日本初の本格的な漱石記念館を建設することを決定し、夏目漱石が暮らし、数々の名作を世に送り出した「漱石山房」の書斎、客間、ベランダ式回廊を、記念館内部にできる限り忠実に再現して開館した。

漱石山房再現展示室。

「漱石山房」の一部を再現。書斎・客間・ベランダ式回廊を再現した。この書斎で執筆された随筆『硝子戸の中』の世界、「漱石山房」再現の取り組みなどが紹介されている。

書斎で再現した複製品等は、県立神奈川近代文学館の協力のもと、同館が所蔵する原資料をもとに製作された。

書棚に納められた洋書は、東北大学附属図書館の協力のもと、同館の「漱石文庫」の蔵書の背表紙を撮影し、製作された。

書斎に続く客間では毎週「木曜会」と呼ばれる漱石を慕う若い文学者たちの文学サロンが開かれた。

漱石が藤椅子に腰かけくつろいだベランダ式回廊。

展示室(通常展・特別展)は2階にある。

夏目漱石の『道草』草稿、『明暗』草稿、『ケーベル先生の告別』原稿などが展示されていた。

エントランスホール横には、図書の閲覧ができるブックカフェがあり、欧米人たちなど数人がくつろいでいた。

入口の横には、芭蕉の木が植えられている。

「漱石山房」を象徴する植物といえば、芭蕉(バショウ)が代表的で、前庭に大きな芭蕉があり、周りには一面の木賊(トクサ)が見られる。

中国原産といわれる芭蕉は、高さ2~3mで大きな葉が特徴で、英名では「ジャパニーズ・バナナ」と言うように、バナナの仲間である。

「漱石山房」の植木は、みな漱石の手により入れられたもので、芭蕉もそのひとつで、漱石は日記でしばしば庭の芭蕉について触れている。

このあと、秩父宮ラグビー場へ向かった。

箱根駅伝2日目ゴール地点 大手町 西新井大師



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