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東京都小金井市 江戸東京たてもの園②デ・ラランデ邸 常盤台写真場 三井八郎右衞門邸 旧自証院霊屋

2025年01月21日 09時07分43秒 | 東京都

江戸東京たてもの園。東京都小金井市。都立小金井公園内。

2025年1月5日(日)。

 

デ・ラランデ邸。

建築年代は、1910年(明治43)ころ。旧所在地は新宿区信濃町。

この住宅は、元は平屋建ての洋館で、明治時代の気象学者・物理学者の北尾次郎が自邸として設計したと伝わる木造瓦葺き寄棟屋根・下見板張りの洋館だった。北尾の逝去後、1910年(明治43年)頃にドイツ人建築家ゲオルグ・デ・ラランデの住居となったデ・ラランデによって木造3階建てに大規模増築され、北尾次郎居住時の1階部分も大改造されたと見られている。

1914年(大正3年)にデ・ラランデが死去した後、何度か居住者が変わり、1956年(昭和31年)から、カルピス株式会社の創業者三島海雲の住居となった。三島海雲の死後は三島食品工業株式会社の事務所として1999年(平成11年)まで使用された。同年、東京都に寄贈され、江戸東京たてもの園で復元工事が進められ、2013年4月20日に公開された。

建物は大規模増築が行われた頃、室内は残された古写真を基にデ・ラランデ居住時(大正期)を想定した復元がなされた。邸内にはカフェ「武蔵野茶房」が出店している

この建物は1910年頃、デ・ラランデが自宅兼事務所として建てたと考えられてきたが、建物を解体した際の調査によって、当初は平屋建の建物であり、後に2・3階部分が増築されたことが判明した。

ドイツ在住でデ・ラランデの足跡を調査してきた広瀬毅彦は、土地所有者だった北尾次郎の子孫宅で発見した明治時代の写真等から、北尾次郎が1892年(明治25年)に自ら設計して平屋建ての洋館を建てていたことを確認した。また、土地台帳等の調査から、土地は北尾次郎の死後も(昭和期まで)北尾家が所有していたことが判明した。広瀬は、デ・ラランデは借家人だった可能性が強いと推定し、デ・ラランデが増築部分を設計した根拠は見当たらないとした。

江戸東京たてもの園は、当時の「建築画報」(1912年7月)がデ・ラランデの設計作品として紹介していることや、解体した部材(2階部分)に「ゲーラランデー」という墨書があったことなどを根拠に増築部分はデ・ラランデの設計と推定している。

ゲオルグ・デ・ラランデ(Georg de Lalande, 1872年~ 1914年)は、ドイツ出身の建築家で、日本で設計事務所を開き、重文・トーマス邸(風見鶏の館)(1904年築、神戸市)、旧ロシア領事館 (函館市)をはじめとする作品を残した。日本にユーゲント・シュティールと呼ばれる建築様式をもたらしたとされる

1894年シャルロッテンブルク工科大学(後のベルリン工科大学)を卒業し、ブレスラウ(現:ポーランド領ヴロツワフ)、グローガウ(現:ポーランド領グウォグフ)、ウイーン、ベルリンで働いたのち、1901年から2年間上海、天津で仕事をした。ドイツ人建築家リヒャルト・ゼールの招きで1903年に横浜へ渡った同年、ゼールがドイツへ帰国したため、建築設計事務所をそのまま引き継いだ。デ・ラランデは横浜だけでなく東京、京都、大阪、神戸、朝鮮など日本領内の各地を巡り仕事をした。ドイツ世紀末の様式であるユーゲント・シュティールの高田商会などでも知られる。

設計した建物は、オリエンタルホテル(神戸市中央区海岸通、 1907年築)、デ・ラランデ自邸(横浜・根岸、1905年築)、三井銀行大阪支店(大阪市中央区北浜、 1914年築)、朝鮮ホテル旧館(京城・現ソウル、 1916年築)、高田商会 ( 1914年築)、朝鮮総督府 ( デ・ラランデが基本設計。1926年築)。など多数あるが、ほとんど現存しない。

2階寝室。

3階への階段部。

綱島家(農家)。

建築年代は、江戸時代中期。旧所在地は世田谷区岡本三丁目。

多摩川をのぞむ崖線上にあった広間型の間取りを持つ茅葺きの民家である。広間と土間境の長方形断面の大黒柱や、オシイタという古い形式の板などから、建物の歴史が感じられる。-

常盤台写真場(ときわだいしゃしんじょう)。

建築年代は、1937年(昭和12)。旧所在地は板橋区常盤台一丁目。

健康住宅地として開発された郊外住宅地・常盤台に建てられた写真館である。照明設備が発達していない当時、最も安定した照度を得るために、 2階写場の大きな窓には北側から間接光を採ることができるように摺りガラスがはめこまれている。

三井八郎右衞門邸。東京都指定有形文化財(建造物)。

建築年代は主屋が1952年(昭和27)、土蔵が1874年(明治7)。旧所在地は港区西麻布三丁目。

港区西麻布に1952年(昭和27)に建てられた邸宅である。客間と食堂部分は、1897年(明治30)頃京都に建てられ、戦後港区に移築されたものである。また、蔵は1874年(明治7)の建築当初の土蔵として復元された。

2025年3月下旬まで修繕工事中。

旧自証院霊屋(きゅうじしょういんおたまや)。東京都指定有形文化財。

建築年代は、1652年(慶安5)。旧所在地は、新宿区市ヶ谷富久町。

尾張藩主徳川光友の正室千代姫が、その母お振の方(三代将軍徳川家光の側室)を供養するために建立した霊屋で、幕府大棟梁甲良宗賀による華やかな霊廟建築である。

自証院(1620年代頃 ~1640年)は、三代将軍徳川家光の側室で、千代姫(尾張藩主徳川光友正室)の生母。通称はお振の方。母は祖心尼の娘・おたあ、父は蒲生家家臣岡重政の子岡吉右衛門。また、吉右衛門の母(振の祖母)は石田三成の娘で、振は三成の曾孫にあたる。祖心尼は伊勢国岩手城主・牧村利貞の娘で前田利長の養女となり、義理の叔母春日局の補佐役として徳川家光に仕えた。

岡重政は蒲生秀行の信任が篤く、秀行の死後も藩主忠郷が幼少のため藩政を取り仕切っていた。しかし会津地震後、藩財政・領国の疲弊を顧みず大規模な寺社復興を行う忠郷の母・振姫(秀行の正室、徳川家康の三女で徳川秀忠の妹)と藩政をめぐり対立、振姫が家康に訴えたため駿府に召喚され、切腹処分となった。

重政の死後、息子の吉右衛門は同じ蒲生家臣だった祖心尼の夫・町野幸和に保護され、幸和、祖心尼夫妻の娘おたあと結婚した。2人の間に生まれたのがお振である。やがて祖心尼は、親類にあたる春日局の引き立てで大奥に老女として仕えるようになり、振は春日局の養女として大奥に入り、寛永13年(1636年)、家光の手がついて初めての側室となる。これは、家光が男色を好み女性を近づけないため、跡継ぎが生まれないことを懸念した春日局と祖心尼が、振を男装させて近づけたといわれている。

お振の方は寛永14年(1637年)閏3月5日、家光にとって初めての子である長女・千代姫を産む。その後体調を崩し、3年後の寛永17年(1640年)に死去した。榎町の法常寺に葬られた後、慶安5年(1652年)富久町の自證院に建てられた霊廟に改葬された。

 



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