日枝神社。 山王鳥居と表参道(山王男坂)。東京都千代田区永田町。
2025年1月1日(水)。
元旦は初詣の寺社ぐらいしか観光する場所はない。参拝したことがある明治神宮などを除いて何か所か選定したうち、まず南北線沿線の神社である日枝神社を訪れることにした。国政選挙のときに当選祈願する神社としてニュースでよく見かけるので選んだ。このあと豊川稲荷東京別院、神田明神、冨岡八幡、浅草寺に足を運んだが、混雑がひどくなって閉口した。元旦は昼から人出が増えるらしく、多客が予想される神社から先に参拝したほうがよかった。
日枝神社(ひえじんじゃ)へは永田町駅で下りた。グーグルマップで確認して選択したのだが、溜池山王駅からが正解だと翌日に知った。永田町駅から坂道を下ったが、それなりに面白い風景だった。
9時20分頃日枝神社参道下に来ると、すでに多くの人が上から下ってきていた。狭い境内にも多くの人がいた。参拝自体は列はもなくできた。
神門。
拝殿。
本殿向かって左に子供を抱いた母親の神猿(まさる)、右には父親の神猿(まさる)が置かれている。猿は群れを大切にし、子宝に恵まれ安産であることから「家内安全」「子授け」「安産」を願って母猿を、「まさる」の語呂から「商売繁昌」「厄難消除」「良縁」を願って父猿を撫でると良いといわれている。日枝神社の境内には「狛犬」ではなく、「狛猿」が置かれている。猿は御祭神「大山咋神」の使いである事から「神猿」(まさる)といわれている。
日枝神社は、山王信仰の神社で、大山咋神(おおやまくいのかみ)を主祭神とし、相殿に国常立神(くにのとこたちのかみ)、伊弉冉神(いざなみのかみ)、足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)を祀る。
創建は、鎌倉時代に江戸氏が山王宮を祀ったことを起源とするが、直接的には文明10年(1478年)、太田道灌が江戸城築城にあたり、川越の無量寿寺(現在の喜多院・中院)の鎮守である仙波日枝神社を勧請したことに始まる。徳川家康が江戸に移封されたとき、城内の紅葉山に遷座し、江戸城の鎮守とした。
慶長9年(1604年)からの徳川秀忠による江戸城改築の際、社地を江戸城外の麹町隼町に遷座し、庶民が参拝できるようになった。明暦3年(1657年)、明暦の大火により社殿を焼失したため、万治2年(1659年)、将軍家綱が赤坂の溜池を望む松平忠房の邸地を官収して社地に当てる形で、現在地に遷座した。この地は江戸城から見て裏鬼門に位置する。
昭和20年(1945年)の東京大空襲で社殿が焼失し、昭和33年(1958年)に再建された。
朱色の鳥居が並ぶ裏参道を下り、外堀通りを歩いて赤坂見附方面へ向かい、歩道橋を越えると、豊川稲荷の山門があった。
豊川稲荷東京別院。東京都港区元赤坂。
曹洞宗豊川稲荷 妙厳寺(愛知県豊川市)の、唯一の直轄別院(飛び地境内)である。大岡越前守忠相が豊川稲荷から吒枳尼天(だきにてん)を勧請し、屋敷稲荷として自邸で祀ったのを由来とする。その後、大岡家の下屋敷が赤坂一ツ木に移転となり、豊川稲荷も引き続き移転先の屋敷で祀られた。大岡越前守にあやかり、立身出世や盗難避け、失し物・失踪人などの効験で評判となる。また明治以降の赤坂は、料亭や芸者などが集まる花柳界が発展し、芸道を生業とする人々からの信仰も増えた。ジャニーズ事務所所属タレントをはじめ、著名な芸能人、スポーツ関係者からの信仰を集めていることでも知られる。
本堂に参拝後、茶店などを見に行くと本堂前より長い列があり、その先に「融通稲荷」があった。
「融通稲荷」では10円の融通金を自由に持って返ることができ、1年後(または願が適った時)に利子を付けて返納する。境内に置かれている「融通金(ゆうつうきん)」と書かれた黄色の袋は、参拝者全員が無料で持ち帰ることができるお守りで、財布の中に入れておくとお金に困ることがなく、開運招福や金銀財宝の融通が叶えられるとされている。
丸の内線に乗って「御茶ノ水駅」へ。神田明神へ向かうが、聖橋を見るために大回りになってしまい、11時頃に神田明神前に着くと、大行列に驚いた。
神田明神。東京都千代田区外神田。
神田、日本橋、秋葉原、大手町、丸の内、旧神田市場・築地魚市場など108か町会の総氏神。神社本庁の別表神社。
3柱を祭神として祀る。
一ノ宮 - 大己貴命(オオナムチノミコト、だいこく様)。縁結びの神様。天平2年(730年)鎮座。
二ノ宮 - 少彦名命(スクナヒコナノミコト、えびす様)。商売繁昌の神様。1874年(明治7年)に大洗磯前神社より奉祀。
三ノ宮 - 平将門命(タイラノマサカドノミコト、まさかど様)。除災厄除の神様。延慶2年(1309年)奉祀、1874年(明治7年)に構内の摂社である将門神社に遷座、1984年(昭和59年)に本殿に奉祀復帰。
社伝によれば、天平2年(730年)、武蔵国豊島郡芝崎村に入植した出雲系の氏族が、大己貴命を祖神として祀ったのに始まる。神田はもと伊勢神宮の御田(おみた=神田)があった土地で、神田の鎮めのために創建され、神田ノ宮と称した。
承平5年(935年)に平将門の乱を起こして敗死した平将門の首が京から持ち去られて当社の近くに葬られ、将門の首塚は関東地方の平氏武将の崇敬を受けた。嘉元年間(14世紀初頭)に疫病が流行し、これが将門の祟りであるとして供養が行われ、延慶2年(1309年)に当社の相殿神とされた。平将門神に祈願すると勝負に勝つといわれる。
江戸時代、江戸城増築に伴い慶長8年に神田台へ、さらに元和2年(1616年)に現在地へ遷座した。江戸総鎮守として尊崇された。神田祭は江戸三大祭りの一つである。山車は将軍上覧のために江戸城中に入ったので、「天下祭」と言われた。
1874年(明治7年)、明治天皇が行幸するにあたって、天皇が参拝する神社に逆臣である平将門が祀られているのはあるまじきこととされて、平将門が祭神から外され、代わりに少彦名命が茨城県の大洗磯前神社から勧請された。平将門神霊は境内摂社に遷されたが、太平洋戦争後の1984年(昭和59年)になって本社祭神に復帰した。
江戸時代初期に豪華な桃山風社殿が、天明2年(1782年)には権現造の社殿が造営されたが、1923年(大正12年)の関東大震災で焼失した。その後、1934年に当時では珍しい鉄骨鉄筋コンクリート構造で権現造を模して再建されたことから、1945年(昭和20年)の東京大空襲では、境内に焼夷弾が落ちたにもかかわらず本殿・拝殿などは焼失を免れた。
神馬「あかり号」。
江戸神社 。 大宝2年(702年)に武蔵国豊島郡江戸に創建された「江戸最古の地主神」である。鎌倉時代には江戸氏の氏神として崇敬された。太田道灌の江戸城築城後は城内にて祀られていたが、徳川家康による慶長8年(1603年)の江戸城の拡張の際に神田神社境内に遷座した。
富岡八幡宮。東京都江東区富岡。
13時ごろ、東京メトロ東西線「門前仲町」駅で下りると、駅通路が行列路になっていた名残りがあった。駅前通りも歩きずらいほどの混雑。鳥居前の行列順路も駅前通りからに変わっていた。
富岡八幡宮は深川八幡宮とも称され、1627年(寛永4年)、菅原道真公の末裔といわれる長盛法印が神託により、当時永代島と呼ばれた小島に創祀したのが始まりとされる。創建当初は「永代嶋八幡宮」と呼ばれ、砂州の埋め立てにより60,508坪の社有地があった。八幡大神を尊崇した徳川将軍家の保護を受け、庶民にも「深川の八幡様」として親しまれた。
江戸最大の八幡宮であり、8月に行われる祭礼「深川八幡祭り」は江戸三大祭りの一つ。また江戸勧進相撲発祥の神社で、境内には「横綱力士碑」をはじめ大相撲ゆかりの石碑が多数建立されている。
富岡八幡宮宮司殺人事件。
2017年(平成29年)5月、富岡八幡宮は、宮司継承問題のため神社本庁からの離脱を決議した。同年9月神社本庁から正式に離脱して単立神社となり、富岡長子が第21代宮司に就任した。神社本庁のトップまで務めた有力神社の離脱として話題となった。
同年12月7日、解任されていた第20代宮司富岡茂永とその妻は境内北東の通用門付近で待ち伏せし、姉の富岡長子と長子の運転手を日本刀で襲い、長子は死亡し、運転手は重傷を負った。茂永は妻を殺害した後に自殺した。
伊能忠敬の銅像。
江戸時代の測量家である伊能忠敬は、当時深川黒江町(現・門前仲町1丁目)に居住し、測量に出かける際は、安全祈願のため富岡八幡宮に必ず参拝に来ていたことから、2001年(平成13年)に境内大鳥居横に銅像が建立された。
社殿。
社殿は、1683年(天和3年)に焼失し、1703年(元禄16年)には地震により損壊し、1923年(大正12年)の関東大震災でも損壊し、さらに空襲でも被害を受けるなどし、再建や修復を繰り返した。現在の社殿は1956年(昭和31年)に造営され、鉄筋コンクリートを使用した、「重層型準八幡造り」となっている。
参拝を終えても、まだ13時30分頃だったので、昨日参拝した浅草寺の元旦の様子でも見ようかと浅草に向かった。
銀座線の浅草駅を降りたが、警察が駅階段の規制をしていた。
14時30分頃、雷門前に来たが人出の多さに閉口したので、10分ほど滞在して宿へ向かった。