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福島県桑折町 旧伊達郡役所 福島市 文知摺(もぢずり)石 飯坂温泉鯖湖湯 高湯温泉 土湯温泉

2024年06月25日 14時25分43秒 | 福島県

重文・旧伊達郡役所。福島県桑折町陣屋。

2024年5月26日(日)。

桑折町西部の丘陵にある桑折西山城跡を見学後、15時45分ごろ福島市方面へ向かった。福島市北・東地域の見学は、文知摺(もぢずり)観音、宮畑遺跡、信夫山第一展望台を予定していたが、面倒くさくなって文知摺観音だけ見学することにした。ナビに従って進んで行くと、16時ごろ、旧伊達郡役所が突然現れた。

新婚カップルが前撮り写真を撮影しているところだったので、前のコンビニに車を停めて撮影した。

旧伊達郡役所は、見学を検討したが、同種の建物はかなり見学しているので省略してしまっていた。しかし、目の前で見ると同種の擬洋風建築にたがわずスタイルの良い建物だった。なお運がいいことに、2021年・22年の福島県沖地震により大きな被害を受け、2022年4月から約8ヶ月をかけ復旧保存修理工事を行い、2022年12月にリニューアルオープンしたという。

旧伊達郡役所は、明治時代初期の洋風庁舎である。伊達郡の郡役所は1879年に保原町(現・伊達市)に設置されたが、桑折町の有志が誘致運動を行ったことにより1883年(明治16年)4月に桑折町に移された。その際に新築された庁舎が、現在も残る旧伊達郡役所の建物である。廃止になるまでの約43年間、郡行政の中心的役割を果たし、廃止後も県の出先機関として利用されていたが、1974年3月にその役目を終えた。

地元大工の山内幸之助・銀作の手による擬洋風建築である。郡役所で遺存している建物のうちでは最大規模を持つ。質がよく改変も少ないことから、明治初期の建築の特徴をよく示している。

基礎は切石を積み、ベランダを張り出したペンキ塗下見板壁になっている。正面は総二階建、中央塔屋を設け、軒は化粧垂木様飾りに円形刳り蛇腹、窓はすべてガラス入りの上げ下げ窓と洋風を模している。

文知摺(もぢずり)観音・普門院。福島市山口字文字摺。

16時20分ごろ駐車場に到着。少し離れた駐車場から受付に着くと、17時に境内が閉鎖されると知った。境内の拝観は無料。受付の男性が紅葉の時期は参拝客が多いと話していた。ここに来たのは、境内にある「もぢずり石」が、小倉百人一首の歌枕の地であり、松尾芭蕉、正岡子規などの文人墨客が多数訪れた場所だからである。「もぢずり石」は、受付から50mほど奥の場所に鎮座していた。

文知摺石。

「しのぶもぢずり(忍捩摺)」は信夫郡の名産で,石に草木をこすりつけ,布にその色を移した染物のことで、かつてこの地は、綾形石の自然の石紋と綾形、そしてしのぶ草の葉形などを摺りこんだ風雅な模様の「しのぶもぢずり絹」の発祥地・産地であった。その名残を今に伝える文知摺石は、都からの按察使(巡察官)、源融(みなもとのとおる)と長者の娘・虎女の悲恋物語の舞台となった。

古今集「みちのくの しのぶもぢずり 誰ゆえに 乱れ染めにし 我ならなくに」(源融)と詠まれた歌は小倉百人一首にも選ばれ、松尾芭蕉も訪れ「早苗とる 手もとや昔 しのぶずり」の句を遺している。

後世、正岡子規や小川芋銭など数多くの文人墨客が足を運んだ境内には悲恋を伝える、もぢずり石を中心に観音堂、県重文の多宝塔はじめ諸堂宇のほか、芭蕉、子規の句碑、源融、沢庵和尚の歌碑などが建立されている。

源融(822~895年)は、嵯峨天皇の子で、河原左大臣とよばれた。紫式部「源氏物語」の主人公、光源氏の実在のモデルの一人ともいわれている。この地には、源融と村の長者の娘の悲恋物語が伝わっている。

遠い昔の貞観年中(9世紀半ば過ぎ)のこと。陸奥の地を訪れた源融は、村の長者の娘・虎女と出会います。日ごとに二人の情愛は深まり、融公の滞留はひと月にも及び、再会を約束し遂に都へと戻る日がやってきました。再開を待ちわびた虎女は、慕情やるかたなく「もぢずり観音」に百日参りの願をかけました。

満願の日を迎えましたが、都からは何の便りもありませんでした。嘆き悲しんだ虎女がふと目を遣ると、「もぢずり石」に慕わしい融公の面影が彷彿と浮かんで見えました。しかし、近づくとそれはすぐに消えてしまいます。虎女は遂に病の床についてしまったとき、一辺の歌が都の使いの者により虎女のもとに届けられました

届いた歌には「みちのくの忍ぶもぢずり誰ゆえに みだれ染めにし我ならなくに」と、融が遠く都で恋の思いに心乱れている様子が記されていました。故事にちなんでもぢずり石は別名「鏡石」とも呼ばれています。境内の奥には虎女と源融(京都嵯峨の清涼寺より土を移す)の墓が建立され、当時の歴史を今に伝えています。

 

古墳時代、安洞院裏山峨嶁山(がろうざん)中腹に多くの古墳群が作られる。697~706年、文武天皇の時、僧行基により、文知摺に聖観音像が安置される。864~869年、源融が按察使(あぜち)として文知摺を訪ねる。この間に短歌(しのぶもぢずり)が作られる延喜5(905)年、古今集に「陸奥の信夫もぢずり誰故に乱れ染にし我ならなくに」源融の和歌が紀貫之らにより撰される元禄2(1689)年、松尾芭蕉が曽良と共に文知摺を訪ねる。「早苗とる手もとや昔しのぶずり」を奥の細道に残す。元禄14(1701)年、安洞院全焼。明治26(1893)年、正岡子規、文知摺を訪ねる。「涼しさの昔をかたれしのぶずり」を詠む。

飯坂温泉鯖湖湯。福島市飯坂町湯沢。

17時近くになったので、道の駅「ふくしま」に向かうことにして、その前に近くにある飯坂温泉鯖湖湯で入浴することにした。福島市営の共同浴場は高湯温泉・土湯温泉も障害者無料である。無料駐車場は少し離れた北東にあるが、一方通行と狭い道が多いので一苦労した。

鯖湖湯は、飯坂温泉で一番古い湯で、元禄2年(1689)に飯坂を訪ねた芭蕉もこの湯に入ったといわれる。日本最古の木造建築共同浴場として親しまれてきたが、1993年に明治時代の共同浴場を再現した御影石の湯船に改築された。

名前の由来は、西行法師がこの湯を訪れた際、「あかずして 別れし人のすむ里は 左波子(さわこ)の見ゆる 山の彼方か」と詠み、そこから「鯖湖の湯」という名が定着したという。現在も飯坂温泉共同浴場のシンボルとされ、県外からの観光客も多く訪れている。

アルカリ性低張性温泉。源泉温度51.0℃。石鹸シャンプー類は要持参。

 

このあと、道の駅「ふくしま」へ向かった。この先の道の駅各駅には無料Wi-Fiがあって重宝した。

高湯温泉共同浴場「あったか湯」。福島市町庭坂高湯。

2024年5月27日(月)。

道の駅「ふくしま」で起床。西の吾妻山方向へ登り、9時5分頃「あったか湯」横の駐車場に到着。

建物は、昔の湯治の湯屋をイメージした和風建築で、浴場はすべて露天風呂。加水も加温もしない自然のままのかけ流し100%方式で、白濁の硫黄泉が温泉風情を醸し出している。PH2.7の酸性含硫黄カルシウム・アルミニウム硫酸塩温泉。

入浴後は、坂を下って土湯温泉へ向かった。

土湯温泉公衆浴場中之湯。福島市土湯温泉町下ノ町。

東北三大こけし発祥の地と言われる土湯温泉唯一の公衆浴場。単純泉と炭酸水素塩泉の2つの源泉を1か所で楽しめる。特に炭酸水素塩泉はアルカリ性で角質を軟化し、肌が滑らかになることから「美肌の湯」と呼ばれている。受付で、単純温泉の源泉温度は約65℃と高温なので、水で薄めて揉んで入るようにいわれた。

 

このあと、福島市民家園へ向かった。

福島県桑折町 戦国伊達氏の本城 桑折西山城跡



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