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新潟県胎内市 荘園領主の館・江上館跡 奥山荘歴史館

2024年02月20日 15時51分27秒 | 新潟県

国史跡・奥山荘(おくやまのしょう)城館遺跡・江上館跡。奥山荘歴史館。新潟県胎内市あかね町。

2023年9月30日(土)。

胎内市乙(きのと)の乙宝寺(おっぽうじ)を見学後、冬季を除く土日祝日のみ開館する奥山荘歴史館へ向かった。隣接する国史跡・江上館跡は「奥山荘歴史の広場」として公開されている。

奥山荘城館遺跡は、中世東国を代表する荘園の奥山荘の荘域に形成された城館遺跡等で13か所が史跡指定されている。

 

板額御前(はんがくごぜん、生没年不詳)。城資国の娘で資盛の叔母という説もある。日本史における数少ない女武将の一人で、古くから巴御前とともに女傑の代名詞として「巴板額」(ともえ はんがく)として知られてきた。城氏は越後国の有力な平家方の豪族で、治承・寿永の乱を経て没落したが、建仁元年(1201年)に、越後において城資盛が挙兵し、要害の鳥坂城に拠って佐々木盛綱らの討伐軍を散々てこずらせた。板額は反乱軍一族の将として奮戦したが、敗軍の捕虜として鎌倉に送られ、2代将軍・源頼家の面前に引き据えられた。全く臆したところがない態度に感銘を受けた甲斐源氏の浅利義遠は、頼家に申請して彼女を妻として貰い受け、一男一女をもうけたという。義遠が本拠とした山梨県中央市浅利に近い笛吹市境川町に板額御前の墓所と伝わる板額塚がある。

奥山荘と三浦和田氏の中条氏・黒川氏。

奥山荘は、越後国蒲原郡(新潟県胎内市,新発田市の北端部,岩船郡関川村の一部)の荘園で、摂関家領である。成立の時期は不明であるが,越後城(じよう)氏のなかに〈奥山〉を称する者があり,城氏を開発領主として12世紀には成立したとみられる。

源平争乱で城氏が没落したあと,その地頭職は木曾義仲を追討した恩賞として和田義盛の弟義茂に与えられた。和田氏,三浦氏が和田合戦,宝治合戦で没落した後は,奥山荘だけが義茂の子孫三浦和田氏の〈一所懸命〉の地となった。地頭支配の強化は荘園領主支配と対立するようになり,1240年(仁治1)には領家と地頭時茂との間に和与が成立し,年貢米100石,御服綿10両(代銭納の場合は60貫文余)を地頭が納めることで地頭請所となった。

1277年(建治3)地頭時茂は孫3人に奥山荘を北条(きたじよう),中条(なかじよう),南条に3分して与え,それぞれが惣領を立てることになった。以後奥山荘の三浦和田一族は典型的な惣領制を展開しながら荘内の支配にあたったが,しばしば一族間に係争を生じ,訴訟をくりかえした。

南北朝末期には惣領の単独相続制に移り,庶子の被官化を進めた。北条は黒川氏,中条は中条氏が惣領として独立しており,南条は関沢氏が中心となったとみられるが,このほかにも高野氏,羽黒氏などの諸家が生まれた。

南北朝時代に、中条房資の曾祖父・茂資(もろすけ)が観応の擾乱の頃に鳥坂(とっさか)城を築き、1453年(享徳2)に中条房資は鳥坂城を再興して中条氏の居城とした。

室町~戦国期にはとくに中条,黒川両氏は有力国人領主として成長し,しばしば守護上杉氏と対抗する勢力となった。中条氏は、同族の黒川氏と領土問題などをめぐり争いが絶えず、越後における内乱の際にはしばしば敵味方に分かれ対立した。

戦国時代中条藤資は長尾為景に仕え、為景の没後は長尾晴景と対立するが、晴景の弟である景虎(上杉謙信)が国主となるとそれに仕え家臣筆頭として活躍した。藤資の後まもなく男子が絶えたが、娘婿で吉江氏の景泰が中条氏を継いだ。子孫は引き続き上杉氏に仕え、1598年(慶長3)豊臣秀吉によって上杉氏の国替が命ぜられると,奥山荘の領主たちもこの地を去って,名実ともに奥山荘の歴史をとじた。中条氏は、上杉氏が米沢藩に転封されるとこれに従った。

黒川氏は、謙信死後の御館の乱では、上杉景虎に加担し上杉景勝方の中条氏を攻めて鳥坂城を占領したが、翌年には景勝によって黒川城は落城。乱は景勝が勝利し、当主の黒川清実は伊達輝宗の仲介で景勝に降伏。以降は景勝に従った。子孫は引き続き上杉氏に仕え、上杉氏が会津に転封されるとこれに従い、子孫は米沢藩士となった。

奥山荘の権利証拠として作成された『波月条絵図(なみづきじょうえず)』。

1277(建治3)年、和田(高井)時茂(ときもち)は奥山荘を中条・南条・北条に三分割し、和田中条は茂連(もちつら)に、南条は和田義基に、北条は和田茂長(もちなが)にそれぞれ相続させた。ところが、和田時茂の死後、三浦和田氏では所領を巡る相続争いが勃発した。

訴え出たのは、和田時茂の娘・意阿(いあ)であった。1285(弘安8)年、意阿は「道円(どうえん)(時茂のこと)の譲状は偽文書」と幕府に訴えた。その結果、和田時茂の孫たちとの訴訟合戦へと発展した。敗訴して所領を奪われる身となった茂明(もちあき)(茂連の子)は、自身の正当性を訴えるための訴訟資料として『波月条絵図』を作成。結果、逆転勝訴して所領は茂明に返された。

『波月条絵図』は、こうした経緯で成立したため、奥山荘の領内の様子が克明に描かれている。絵図中央には太伊乃河(たいのかわ)(胎内川)が左右に流れ、条の境界や市場(七日市(なのかいち)や高野市(たかのいち))の場所、地頭の館、町並み、鋳物師の名前などが記載されており、訴訟のために正確性を期した結果、図らずも中世東国荘園の実態を現代に伝える内容となっている。

江上館跡は、旧中条町の南部、旧潟湖に隣接する扇状地の扇端部の標高約18mの微高地に占地し、三浦和田氏の惣領家である中条(なかじょう)氏の居館跡と伝えられている。

発掘調査によって、約1町四方の主郭とそれに附属する南郭・北郭からなる館跡の全体像がほぼ判明した。13世紀から16世紀前半の中国陶磁器・珠洲焼等が大量に出土し、4か所の橋跡、南門・北門跡、数次にわたる堀・土塁の改修補強の様相が確認された。

奥山荘歴史館2階から江上館跡。

江上館跡。南門。

江上館跡。主郭部主殿方向。

江上館跡。主郭部北から北郭方向。

江上館跡。北郭から北方向。

 

国史跡・坊城館跡(西本町)。

鎌倉時代後期(13世紀後半~14世紀前半)の館跡で、当時最も格の高い居住者である地頭=三浦和田一族の屋敷跡であると考えられ、鎌倉時代の地頭屋敷が室町時代の武家居館(江上館)の南方200mに位置していたことが判明した。

60数m四方の屋敷地を区画する溝や大規模な建物が何棟も発見され、大量の土器(かわらけ)、青砥などの高級中国製磁器などが見つかっている。

 

 

 

 



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