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新潟県 長岡市馬高縄文館①火焔型土器 馬高遺跡

2024年01月28日 13時30分24秒 | 新潟県

長岡市馬高縄文館。新潟県長岡市関原町。

2023年9月26日(火)。

新潟県立歴史博物館の見学を終え、近くにある長岡市馬高縄文館へ向かった。

国史跡・馬高・三十稲場(うまたか・さんじゅういなば)遺跡は信濃川左岸の段丘上にある縄文時代の大規模な集落跡である。関原(せきはら)南方の「遠藤沢」と呼ばれる小さな沢を挟んで、東側に縄文時代中期(約5500年前~4500年前)の馬高遺跡、西側に縄文時代後期(約4500年前~3200年前)の三十稲場遺跡が位置している。

馬高遺跡は「火焔土器」発祥の地として全国的に著名であり、馬高式土器の標式遺跡となっている。馬高遺跡で最初に発見された「火焔土器」は1980年に重要文化財となり、2002年にはその他の主要な土器・石器等を合わせた300点が重文の追加指定を受けている。

馬高遺跡は県内最大級の縄文中期の集落址でその規模は東西で150m、南北で250m。この遺跡は近藤勘治郎・篤三郎父子による調査をはじめとして、これまでに多くの調査が実施され、多数の住居址や炉址とともに大形土偶土器以外にも三角とう土製品や三角形土版、土偶などの土製品、石斧や石棒、玉類、三脚石器などの石製品といった生活や信仰に関係する多くの遺物が、2群の馬蹄形状に展開した集落から発見されている。

馬高遺跡で生活した人々は次の縄文後期になると三十稲場遺跡に生活の場を移した。

2009年に、史跡に隣接してガイダンス施設「馬高縄文館」が開館した。

重文。火焔土器。馬高遺跡。縄文時代中期。口径30.0㎝×高さ29.5㎝。

昭和11(1936)年に近藤篤三郎により見つかったと伝えられている。馬高A式1号と命名されていたこの土器は、その形状から誰ともなく「火焔土器」と呼ばれ、「火焔型土器」という土器型式の標識土器となった。

重文。王冠型土器。馬高遺跡。縄文時代中期。

火焔型土器と同時代に使用された土器。口縁部の形状が異なるが、縄文を用いない、横S字や逆U字の隆起線文、袋状突起など共通点も多く、口縁部が見つからなければその区別ができない。火焔型土器や王冠型土器のほか栃倉式土器、塔ヶ崎類型など同時代に信濃川流域で使われていた土器のセットを「火炎土器様式」と呼んでいる。

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