観自在王院跡。世界遺産。特別史跡。国名勝。岩手県平泉町平泉志羅山。
2023年6月15日(木)。
世界遺産・金鶏山下山後、南近くにある世界遺産・観自在王院跡へ徒歩で向かい、北の阿弥陀堂から反時計回りに南の池を一周した。
観自在王院は、奥州藤原氏の政権中枢として12世紀に繁栄を誇った平泉の浄土伽藍である。庭園は、大小の阿弥陀堂の南側に設けられた園池を中心として、背後の金鶏山とも一体的に阿弥陀如来の極楽浄土の表現を意図して造られた浄土庭園であり、数少ない平安時代の庭園遺構として高く評価されている。
12世紀半ばに奥州藤原氏第二代基衡の妻が自らの居所を寺としたのが最初で、その後変転を経て、元亀4年(1573)の一揆に伴って発生した火災により大阿弥陀堂及び小阿弥陀堂などの堂宇が完全に焼失したとされている。園池の北側では大阿弥陀堂及び小阿弥陀堂の痕跡を示す礎石が発見されたほか、園池の南側では棟門跡が発見された。
北上市立博物館
観自在王院
観自在王院の東西約160×南北約260mの南北に延びる寺域は幅約30mの南北道路を介して西側の毛越寺に接し、敷地の北に寄せて大阿弥陀堂・小阿弥陀堂などの主要建築群が建ち並び、南半部に広大な池が展開する。
「舞鶴が池」と呼称される園池は、東西100m、南北約100mの規模を持ち、中央やや東寄りにに東西約30m、南北約12mの中島が盛土により造成されていた。さらに、毛越寺の庭園の「大泉が池」とは異なり、比較的簡素な意匠・構造の園池であったことも判明した。
「舞鶴が池」の平面形状は、「池は鶴か亀の形に掘るべし」と記す『作庭記』の記述と一致する。また、池の水際の白浜の形状、景石の配置、西岸中央部付近の伝うように水が落ちる滝石組の構造も『作庭記』の記述に一致している。
池の水は毛越寺境内の北東隅に位置する弁天池を水源とし、南北道路を横断して観自在王院の敷地内に引かれた後、緩やかに蛇行する遣水を経て池へと導かれる。特に、遣水が池に流れ込む位置には大きな石を伏せるようにして組み、雄大な滝の景を構成している。簡素ではあるが動的な水の姿を表した流れの部分と、広々と静止する池の水面、そして両者の接点に躍動感のある滝の姿を表現したものである。
池の外周は草止めの護岸のところどころに礫をあしらい、大小の景石を配して随所に見どころのある汀の景を造る。
昭和48年から53年度に庭園跡を含む敷地全体の修復・整備工事が行われ、旧観自在王院庭園として現在見る庭園の景観が再現された。
平泉には、観自在王院のほかに毛越寺、無量光院など顕著な価値を有する浄土伽藍の遺跡が存在する。毛越寺は第二代基衡が造営した薬師如来を本尊とする伽藍で、金堂・庭園(橋・中島)・背後の塔山がそれぞれ南北に並ぶのに対し、無量光院は第三代秀衡が造営した阿弥陀如来を本尊とする浄土伽藍で、阿弥陀堂、庭園(橋・中島・拝所)、背後の金鶏山が東西方向の軸線上に明確に並ぶ配置構成を採る。
毛越寺は鎮護国家を祈願して造営された伽藍であり、無量光院は当初から西方極楽浄土を象徴して造営された伽藍であったが、観自在王院は途中で住宅を喜捨して伽藍に改めたという造営の経緯が影響したためか、西方極楽浄土を象徴する伽藍でありながら、伽藍の軸線が東西方向ではなく南北方向に定められている。
また、観自在王院の庭園は、毛越寺の庭園と比較すると池の護岸など庭園の意匠・構造が全般的に簡素だという点においても特徴がある。毛越寺庭園の遣水は全体を礫及び景石で覆うのに対し、観自在王院の遣水は優美に湾曲する意匠ではあるが、ごくわずかの石材のみを用いたほとんど素掘りに近い構造を成す。
以上のように、旧観自在王院庭園は平泉に造営された浄土伽藍の庭園の中でも独特の意匠と構造をもち、それらの系譜上の位置付けのみならず、日本庭園史上における学術的価値も極めて高い。庭園全体の地割及び景観構成のみならず、遣水・滝石組・汀線等の細部の意匠・構造においても芸術上、観賞上の価値は高い。
現在、18世紀初頭に建てられた現存の阿弥陀堂では、毎年春に毛越寺僧侶らによって基衡の妻の葬列を再現した法事が行われている。
現阿弥陀堂から東南の池方向。
現阿弥陀堂から西南の池方向。滝石組、毛越寺。
池の西部。
中島、奥に阿弥陀堂。
鐘楼跡付近の汀。
観自在王院跡を見学後、駐車した町立平泉文化遺産センターへ戻り、見学した。