岩手県立平泉世界遺産ガイダンスセンター。平泉町平泉字伽羅楽。
2023年6月15日(木)。
観自在王院跡を見学後、駐車した平泉町立平泉文化遺産センターへ10時30分ごろ戻り、見学した。撮影禁止なので展示内容の記憶はない。道の駅・柳之御所遺跡史跡公園に隣接する2021年11月開館の岩手県立平泉世界遺産ガイダンスセンターに12時前に移動して見学した。奥州藤原氏の政庁跡とされる柳之御所遺跡の発掘調査の成果を主に展示紹介するとともに、世界遺産としての平泉を紹介するガイダンス施設である。
「平泉-仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群-」の顕著な普遍的価値
平泉は、12世紀日本の中央政権の支配領域と本州北部、さらにはその北方の地域との活発な交易活動を基盤としつつ、本州北部の境界領域において、仏教に基づく理想世界の実現を目指して造営された政治・行政上の拠点である。それは、精神的支柱を成した寺院や政治・行政上の中核を成した居館などから成り、宗教を主軸とする独特の支配の形態として生み出された。
特に、仏堂・浄土庭園をはじめとする一群の構成資産は、6~12世紀に中国大陸から日本列島の最東端へと伝わる過程で日本に固有の自然崇拝思想とも融合しつつ独特の性質を持つものへと展開を遂げた仏教、その中でも特に末法の世が近づくにつれて興隆した阿弥陀如来の極楽浄土信仰を中心とする浄土思想に基づき、現世における仏国土(浄土)の空間的な表現を目的として創造された独特の事例である。
それらは、浄土思想を含む仏教の伝来・普及に伴い、寺院における建築・庭園の発展に重要な影響を与えた価値観の交流を示し、地上に現存するもののみならず地下に遺存する考古学的遺跡も含め、建築・庭園の分野における人類の歴史の重要な段階を示す傑出した類型でもある。
さらに、そのような建築・庭園を創造する源泉となり、現世と来世に基づく死生観を育んだ浄土思想は、今日における平泉の宗教儀礼や民俗芸能にも確実に継承されている。
柳之御所遺跡は、奥州藤原氏の住居・政務の場であった居館の考古学的遺跡であり『吾妻鏡』に記す「平泉館」の跡とされている。居館は 11 世紀末期~12 世紀初頭に造営が開始され、12 世紀末期に奥州藤原氏が滅亡するとともに焼失した。
それは、為政者としての奥州藤原氏が仏教に基づく理想世界の実現を目指し、平泉の造営を進める上での重要な起点となっただけではなく、初代清衡が造営した中尊寺金色堂、三代秀衡が造営した無量光院など、仏国土(浄土)を空間的に表現する建築・庭園とも空間上の緊密な位置関係を持っていた。
柳之御所遺跡は、平泉中心部の東側を流れる北上川と西側の猫間が淵の低地に挟まれた標高22~30mの段丘の縁辺部に立地する。北西から南東の方向に細長い区画を成し、最大長約750m、最大幅約220m、総面積約11万㎡である。これまでに実施された計70回に及ぶ発掘調査により、奥州藤原氏四代の居館に関する豊富な情報が明らかとなった。
遺跡は、堀で囲まれた遺跡全体の約3分の2に相当する東南の区域と、堀の外側に展開する北西の区域に分かれる。
堀で囲まれた東南の区域では、道路状遺構・塀跡・掘立柱建物跡・竪穴建物跡・園池跡・井戸跡などの遺構が発見された。堀跡は幅約10m、深さ約2.5mで、全長が約500mにも及ぶ。東と南の堀では、道路状遺構に連続する橋脚跡が確認された。堀で囲まれた区域の内部には塀で囲まれた区画があり、区画内の北半部には建物群が、南半部には園池が、それぞれ設けられていた。
建物は掘立柱構造で、寺院で発見されている建物跡が礎石建の構造であるのと対照的である。園池の北側の区域には比較的規模の大きな建物が密に分布し、区画の中でも中心的な部分を成す。四面に庇を伴う大型建物の周辺には中小規模の建物が分布し、整然とした規格性が見られる。また、総柱で構成される建物は高床倉庫と推定され、平泉館の焼亡時に倉のみが焼け残り、その内部に犀角、象牙の笛、水牛角、紺瑠璃の笏などの舶載品が唐木製の厨子に納められていたと記す『吾妻鏡』の記述との関連性がうかがえる。
堀に囲まれた区域の外側に当たる北西の区域では、西の中尊寺金色堂の方向に向かって伸びる幅約7mの道路の跡が発見されており、「金色堂の正面方向に平泉館がある」とする『吾妻鏡』の記述とも合致する。道路を挟んだ両側の地域には、方形の区画が並んで展開していることが確認されており、堀に囲まれた区域とも密接に関連する一族の屋敷地跡と推定されている。
奥州藤原氏の政庁のうち三代秀衡の頃の「平泉館」の復元ジオラマにより、奥州藤原氏の政庁・居館として、建物や広場、池などが造られていた当時の姿を再現している。