吉里吉里善兵衛歴代の墓地(前川善兵衛の墓)。町指定文化財。岩手県大槌町吉里吉里(きりきり)。
2023年6月12日(月)。
旧釜石鉱山事務所を見学後、大槌町吉里吉里の前川善兵衛の墓へ向かった。1981年に刊行された井上ひさしの小説「吉里吉里人(きりきりじん)」は当時評判になった。吉里吉里人が、日本から独立して吉里吉里国という独立国を作るというアイデアはその後各地で模倣された。吉里吉里(きりきり)という地名にもインパクトがあり、小説の設定では別の場所になってはいるが、もとになった吉里吉里を見学しようと思った。何か史跡があるのかと調べて、興味を引いたのが「前川善兵衛の墓」だった。井上ひさしが何故その地名を知ったのか。一時、国立釜石療養所の事務職員であったときだろうか。
釜石市街地の北から海岸近くを北上し、三陸鉄道リアス線吉里吉里駅をめざして幹線道路から脇道に入ったが、駅への道標がなく迷った。線路横の高台に取り付き、小公園に至ると、墓地が見えてきたので、路駐した。こども園下の細い道を進むと、吉里吉里善兵衛歴代の墓地(前川善兵衛の墓)があった。50基あまりの前川家歴代一族の墓石が海を向いて並んでいた。
みちのくの紀ノ国屋文左エ門とよばれた三陸大槌の豪商「吉里吉里善兵衛」とは。
吉里吉里駅前の小公園から東に約50m、散策路の先に「吉里吉里善兵衛」歴代の墓地がある。吉里吉里の街並みと吉里吉里海岸、船越湾を見下ろす小高い丘にある歴代の墓地は町の史跡に指定され、江戸の昔に豪商として栄えた往時の栄耀栄華を偲ばせる。
明治の頃まではこの墓地は大理石の石畳で敷き詰められていたという。伝説そして民話に語り継がれてきた「吉里吉里善兵衛」は「みちのくの紀ノ国屋文左エ門」とも称され、いろは48艘の千石船に帆を上げて、唐天竺(からてんじく)を股にかけた海の豪商として持てはやされた。
栄華を誇った「吉里吉里善兵衛」の邸宅は2万坪にも及ぶ土地の中に豪奢に建てられ、その周りに使用人等が住む長屋が建っていたといわれる。
前川家は漁業と貿易で産をなした海産物商で、盛岡藩の御用商人である。八代まで「善兵衛」と名乗り、南部藩の財政を支えた。
その祖は小田原の後北条氏に仕えた清水富英といい、相模国前川邑(小田原市前川)に150貫の領地を与えられていた。小田原征伐で後北条氏が没落すると、富英は奥州・気仙浦に逃れた。子の富久の代に吉里吉里に移住し、旧領名から前川と改姓した。
初代は甚右衛門、2代目以降は代々善兵衛を名乗った。初代甚右衛門の頃から常陸那珂湊の貿易商白土次郎左衛門と関係を持ち閉伊海岸の海産物の交易を行っていたが、元文の頃(1736年~)より商名を「東屋孫八」と称して、海産物や米・大豆などを江戸に積み出して富を蓄積した。煎海鼠や干鮑などの長崎俵物の出荷にも従事し、さらに尾去沢銅山の発掘請負人となり、延鉄の出荷にもたずさわるなど、多角的経営を展開した。前川家は盛岡藩に多額の融資を行い、代わりに十分の一税を永代免除され、「御免石船」として交易にあたった。
前川家は船頭、水主を多く従えていたが、そのほどんどが永代水主である。こうした永代水主を中心とした漁業経営にもあたっていた。
しかし、1753年(宝暦3年)、4代善兵衛富昌の時、盛岡藩が江戸幕府に日光東照宮修復のお手伝い普請を命じられると、藩は領内の豪商に費用を供出させ、前川家も7500両の出費を余儀なくされた。さらに、宝暦の飢饉では蔵を開いてのべ3万2千人に雑穀を振る舞ったが、追い打ちを掛けるように盛岡藩に献金を要求された。こうしたことが度重なり、前川家の家運も傾き始めた。
6代善兵衛富長は、測量に訪れた伊能忠敬を接待した記録が残るが、船を難破で失うなど本業は苦境が続いた。以降も前川家は存続するが、豪商としての活動は見られなくなり、漁業に専念するようになっていった。
初代:甚右ェ門富久( - 1677年 延宝5年)
吉里吉里浦に移住してからの初代。富久は当時の回船問屋から交易の権利をゆずり受け、三陸漁場を差配する力を持つようになった。常陸方面の貿易商との関係があり、海産物を扱っていた。
2代:善兵衛富永(1638年 - 1709年 宝永6年)
前川家を不動のものに興した祖といわれる。1706年南部藩に930両も貸していたほどの貿易商で、そこから得た利益を全部南部藩に返納したことから、交易船200石分の御免石証文を貰い、名字帯刀も許された。
3代:善兵衛助友(1678年 - 1746年 延享3年)
64石余の地方給人、いわゆる代官所下の地方侍であったが、1707年父富永の隠居とともに家業を継ぐ。
南部利視の海岸巡視の際には、出店のあった大槌浦(安渡)宅で接待したり、箱崎山で狩りを行った時も猟師204人や列卒(せこ)3200人の弁当や御召船も出している。
南部藩はこの助友の代にも金銭を用立てており、証文18枚で1700両もあったが、これも全部藩に返納して魚類海藻積出200石の船税免除を永代に許された。前川家では「明神丸」という800~1000石も積む商船での出航を許可されていた。
4代:善兵衛富昌(1691年 - 1763年 宝暦13年)
野田の中野甚右ヱ門という給人の家から養子となり、1738年助友の後を継ぐ。1744年藩船宮古丸(700石)と虎丸(250石)の造船を命じられ、宮古方面から吉里吉里まで良材を運び、1745年6月に2艘を完成させた。1741~1750年、宮古、大槌両代官所の漁師たちから納められる〆粕の差配役を命ぜられ、7ケ年分の勘定で15900両の藩費納入を手伝い、尾去沢銅山の経営も盛岡商人とともに仰せつかっている。
1749年には、南部藩は江戸屋敷の財政支えのため、藩米1万俵引き当てに3500両の上納を命じている。1753年、幕府からの日光山の修復を命ぜられた南部藩から7000両を都合され納めている。
1755年の宝暦の大飢饉には、大槌通だけでも1094人の餓死者が出る中、飢民救済のため私蔵を開いて粥を炊き施した。その数、延べ25000人余に及んだ。
中央が「昌雲壽翁居士」の4代富昌、右が「義山松翁居士」の5代富能の墓。
5代:善兵衛富能(とみよし、1723年 - 1801年 享和元年)
1761年4代富昌から家督を譲り受けた。江戸幕府から南部藩が日光五本坊の修復を命ぜられ、費用7万両のうち、藩米3万俵を抵当に5000両の調達を請け負った。
豪商善兵衛を物語るものとして『吉原で海苔の羽織』というエピソードがある。
7000両の調達以降も度重なる御用金要請により、それまで7000両を納める立場の善兵衛は、逆に7000両の借金を抱えるまでになった。このころから富能は、盛岡の勘定所へ持ち船や店舗の売却、御用商人の御役御免の請願書を何度か提出してる。
御用商人を辞め、起死回生を図ろうとした富能は、それまでの関東俵物(交易)から長崎俵物(貿易)に眼を付け、取り組み始めるが1769年には700両もの不渡りに遭遇するなど、商売は下降の一途をたどっていく。
6代:善兵衛富長(1772年 - 1843年 天保13年)
5代富能は子宝に恵まれず、盛岡の赤沢家から養子(富長)を迎えるが、過去の栄光は蘇らず、衰退の一途をたどる。
7代:善十郎富命(1785年 - 1830年 文政13年)
8代:善兵衛富壽(1812年 - 1884年 明治17年)
6代(富永)、7代(富命)、8代(富壽)と漁業権を処分しながら、僅かに武士としての面目を保っていた。
このあと、釜石市市街地南にある「鉄の歴史館」へ向かった。