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新潟県粟島浦村 日本海に横たう離島・粟島

2024年02月16日 14時14分40秒 | 新潟県

岩船港と粟島行きフェリー。新潟県村上市岩船港町。

2023年9月29日(金)。

村上市の日本海沿いにある石船(いわふね)神社を見学後、岩船港へ向かった。日本海に浮かぶ粟島を見学するためであるが、宿泊はしないので日帰りとなると岩船港10時30分発・粟島着12時05分、粟島発13時00分発・14時35分岩船港着となる。運賃は障害者半額割引の往復で2520円。

10時前に岩船港前の駐車場に着いたが、満車に近かった。

春に秋田・岩手を旅行したときの往路で、村上市の北部にある笹川流れの道の駅から日本海を眺めたときに粟島を見ている。

港の待合所で粟島のガイドブック小冊子を入手して船に乗り込んだ。乗客は30人ほどだった。

石船神社は、正面の丘陵の先端中腹にある。

リグの彼方に見えるのは、新潟市の南西にある弥彦山と角田山のようだ。

粟島は、新潟県村上市(本土)から北西に35 kmの海上に位置する。面積は、9.78㎡。東西4.4km、南北:6.1km。周囲23.1 km。最高地点は、小柴山 (265.6m)。粟島浦村の人口は2015年度で370人。

伝承では、大和朝廷の蝦夷征伐によって土地を追われた蝦夷が粟島に上陸し、東海岸(現在の内浦地区)で暮らし始めたという。粟島の名が文献に登場するのは大同3年(808)に作られた「大同類聚方」からで、粟島はこの中で「粟生」と記され、蝦夷の一部族の名前とする説がある。

9世紀初め、北九州の松浦党の一族が粟島東海岸へ上陸し、蝦夷を西海岸(現在の釜谷地区)へ追い払って生活するようになった。その半世紀後、今度は越前国の本保氏一族が粟島東海岸へ上陸し、松浦一族を西海岸へ追い払い、そこで住むようになった。追われた松浦一族は西海岸で生活していた蝦夷を北に追い、西海岸を開拓してそこを拠点とした。やがて北の蝦夷は絶滅し、島には東海岸の本保一族と西海岸の松浦一族のみが残ったという。

鎌倉時代、室町時代には揚北衆の一つ色部氏の所領であった。江戸時代になると、村上藩領、天領、庄内藩預所などを経て、宝暦3年(1753年)以降は米沢藩預所となった。1889年に粟島浦村が成立し、現在に至っている。

昭和39年(1964年)6月16日に、粟島沖を震源とするマグニチュード7.5の地震(新潟地震)が発生。島全体が約1m隆起した。このため水稲栽培が難しくなり、島を覆っていた水田はほとんど姿を消した。

粟島港。粟島浦村。

粟島港に近づくと、出迎えの人たちがいた。下船して分かったが、中学生7人ほどが船に乗って修学旅行から帰ってきたところだった。船の前で、生徒代表が出迎えの父兄に挨拶をして解散していった。

帰りの時間が気になったが、港の裏側にある弁天岩や粟島火力発電所を通り、30分ほど郵便局や商店もある集落の中まで歩いてみた。

弁天岩。

以前は海の中にあったが、1964年(昭和39年)6月の新潟地震により隆起して陸地に取り込まれたという。弁天岩の池のように見えるのは海水で、潮の干満によって海水が出入りするという。

島内を一周するコミュニティバスの停留所がある。

岩船漁港。

帰路の船上から眺める瀬波温泉と村上市街地方面。

14時35分ごろ岩船港着。村上市街地へ戻り、皇后雅子妃の祖母の実家である武家屋敷を見学に向かった。

新潟県村上市 千年鮭「きっかわ」 石船神社



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