
2011年3月15日14時24分
危機的な状況が続いた福島第一原発。14日に起きた3号機の水素爆発を受け、原発から20キロ圏内に最後まで残っていた住民ら約750人が避難を始めた。多くは入院患者や特別養護老人ホームに入所するお年寄りたちで、自衛隊などによる移送が夜にかけて急ピッチで進められた。14日午後5時、福島市の福島県立医科大付属病院。自衛隊のヘリが、浪江町にある西病院の入院患者を乗せて到着した。マスクをして水色の防護服を着た病院職員約30人が待ち受け、ヘリから降りた女性患者を車いすに乗せた。患者はその場で放射線量を測るスクリーニングを受けると、救急車で病院に運ばれた。
腰をかがめて歩く白髪のお年寄りやマスクをして毛布を肩からかけた女性……。西病院からは数回に分け、患者57人と職員18人を対象に搬送が行われた。
第2陣のヘリが到着したのは同日午後8時すぎ。「こんばんは。名前を教えてください。痛いところはない?」。到着した患者たちは、医師の指示で治療の優先順位を判断するトリアージを受けた。
87歳の女性は「(ヘリコプターの)音がうるさくて、少し耳がきーんとする」と言いながらも、ほっとした様子。一方で、「早くやれ。何でもいいから」と、いらだつ男性もいた。ヘリに乗ってきた看護師は「まだ安心はできないけれど、無事に出られて安心した」と話した。
特養ホーム「オンフール双葉」に残っていた入所者や職員ら約200人は14日夜からバスで移動。このうち32人は15日午前3時50分ごろ、県南部・西郷村にある青少年宿泊施設「国立那須甲子(なすかし)青少年自然の家」に着いた。
最高齢の101歳を含む一行は、水も電気もないホームで3日3晩過ごした。入所者の女性(85)はバスから降りて「手が痛い。足も腰も痛い。疲れたあ」と漏らした。
ホームは地震発生直後から町の対策本部に助けを求めていたが、14日夜まで救助が来ず、援助物資も届かなかったという。職員の坂下和義(かずのり)さん(37)は「20人くらいずつが毛布にくるまり、体を寄せ合って寒さに耐えた。ラジオで原発のニュースを聞いて不安も高まっていた。もう限界ギリギリでした」と話した。
自然の家では、22人の職員が出勤し、準備を進めた。県災害対策本部から受け入れ要請があったのは14日の朝。連休となる19、20日には400人の宿泊予約が入っていたが、被災者を受け入れるため、急きょキャンセルを決めた。食料は5日分の備蓄があるという。
自然の家には、3号機の原子炉建屋での爆発を知り、避難してきた人もいた。いわき市の男性会社員(35)はニュースを見ると、すぐに妻(32)と2人の子どもを連れ、同市の避難所から移ってきたという。「原発の安全性は間違いないと思っていた。これほど大きな地震は予想外だったのか……」。不安を隠せない様子だった。
」