ひとりごと:「私設いけだ阿波踊り研究室」

阿波踊り大好き行政書士の日記
武術談議、阿波踊り談議が大好きです。地元の方はお気軽に(笑)

歴史を大切に

2020年10月31日 09時10分53秒 | Weblog
池田阿波おどり、、、
歴史を見れば、マチ地区発祥の文化。
僕はここを大切にしていきたいと思う。

昔の本町筋。
この通りを、思い思いの格好で、
楽しく踊りあかした。

現在の町並みを歩くとき、
ふと思いにはせる。
やはり、マチ地区在住者が守らなければ、
なんて使命感が生まれます。

人出2

2020年10月29日 08時11分57秒 | Weblog
私が小学生の頃、
池田阿波おどりの人出は凄かった。

例えば、
駅前通りを通って駅まで行くより、
郵便局の裏を通って(かなり遠回り)
行った方が速い。

駅前通りなんて、見物客でごった返し。
普通に歩けないので、
みんな連の後を一緒に歩いていました。

現在、高速が通り、県外のお客さんが増えているのに
人出が少なくなっている。
こんなところでも過疎を実感します。

地元の人が、見に来なくなった原因は多々あります。
高齢化はもちろんですが、
ケーブルTV放送が始まり自宅で見るって人も多い。
祭りは、現場で音圧体感して見て欲しいけど、、、、

意外と多く聞くのが、
「今の阿波おどりはうるさい」
という声。
高齢の方に多いご意見です。
確かに、昔に比べて、
打楽器増えたしなぁ。
仕方ないと言えばそうだけど(笑)

人出

2020年10月28日 08時05分14秒 | Weblog
昭和の頃、
池田阿波おどりの人出は凄かった。

近所のお年寄りも、
その日は(おめかし)して、
踊り見物なんてしゃれ込んで。

観客の中で連のOBが見ていると、
現役踊り子が列に引きずり込んだり(笑)
狭い地域のことですから、
みんな知り合い。
OBもそれを見越して、待っていたり。
当時から、
周辺の町村(旧山城町や三好町、三加茂町など)
の人たちも、大勢見物に来てました。

最近は、その地域の人たちが
参加してくれるようになりましたが、
肝心のマチ地区人口が激減して、
踊りの人出は
年々寂しくなっていますね。

マチ地区としても、
何かアイデアを出さないといけません。

ご当所ってなに??

2020年10月20日 13時15分01秒 | Weblog
池田阿波おどり発祥の地、マチ地区。
ここは古くからの商人街ですが、
そこに数多くの連がありました。
なので、連ごとに本拠地みたいな感じの場所があって、
そこを「ご当所」って言っていたみたいです。

さつき連は、谷町界隈。
風来坊連は、われい神社周辺。
(いけだ)えびす連は、中通り界隈。
御陣屋連は、そのまま御陣屋周辺の人らって感じで。

創生期は、町会名に組って付けてたらしいですが、
今の連との繋がりは不明です。
(さつき連のみ判明)

その後、職場単位の連や、
組織(青年会や商工関係の)的な繋がりの
連、マチ地区以外のが出来てきたみたいです。

伝説のハート連もこのカテゴリーです。
郡友連もそうかな?
諏訪連、パンダ連、
小鳩連、まだ沢山あったような、、、
マチ地区以外では、
吉野連、祇園連、白地連、中西連、箸蔵連、
小鳩からとうりゃんせが生まれたり。

職場単位の連なら
西阿連、ダム連、各銀行系の連、
三好病院連や、専売公社の連、
きっと漏れてますが(笑)
思い出しきれません。


池田町マチ地区の連

2020年10月17日 08時27分05秒 | Weblog
踊りが盛んになれば、連ができる。
池田のマチ地区にも沢山の連がありました。

現存する連で一番歴史が古いのが「さつき連」
お三味線や、習い事(日舞)の師匠さん達が始めた連で、
所謂、(ええとこの嬢ちゃん)がメンバーでした。
上品さが持ち味だったとか。

次に歴史があるのが、風来坊連。
さつきと風来坊、この2連は格別古いです。

われい神社氏子が中心となり結成されました。
ここは当時、若い衆に人気の連で、
当然、生きの良い若者が中心。
なので鳴り物がどんどんアップテンポになったとか。
今でも、キレのある踊りと音が持ち味ですね。

(いけだ)えびす連は、中通り周辺の方が結成しました。
昔は、個の踊りが売り。
形がないのが特徴でした。
ここの昭和50年代の看板踊り子といえば
Oさんと、Mさん。
小柄なOさんは
印籠の房が1日持たないと言われた低さが売り。
対するMさんは、(何かおくれ)と言わんばかりに
前に手を出す独特の踊り。
細かい団扇捌きの方とか、ホント、バラエティーに富んでました。

マチ地区には、その他多くの連がありましたが、
本拠地(ご当所)が決まっていたようです。
次回は、その辺りのお話を。

池田阿波おどりの話

2020年10月15日 08時07分43秒 | Weblog
かの有名な(お鯉さん)。
いけだ阿波おどりマチ地区での体験が
芸の道に進むきっかけとなった
ことをご存知ですか?

ご自身の著書
「お鯉よしこの人生」
21Pに書かれています。


大正6年、お父さんの忘れ物を届けに
池田町に来たとき、
旅籠橋本屋に泊まったとのこと。

(旅籠橋本屋跡地)

時期は丁度お盆。
阿波おどりで賑わうマチ地区。
浮かれた町衆に誘われて、
旅籠前の(輪踊り)に参加。
ここで
三味線を披露したところ、
「こりゃ上手い」と皆が大喜び。
そのまま三味線を弾いて、
皆と一緒に流しに参加したとのこと。

通り通りで出会う人の喜びようが
何ともいえない気分になって
その経験が、芸の道に進むきっかけとか。

正式導入から数年。
すでにこの頃には、徳島市内同様に
盛んだったのですね。

当時の池田商人は、
葉たばこや、みつまたの集積地として
財力がありました。
当時の賑わいがうかがえます。

お鯉さんが流した通りは、
現在の杉尾通りから、
当時の阿波おどりメインストリートの本町通り、
庚申通り、中通り界隈と推測できます。

さて阿波おどりが盛んになった池田では、
戦後、旧マチ地区に多くの踊り連が誕生しました。

戦前から続くマチ地区の(現存する)連は、
三味線の松本会の流れをくむ(さつき連)さん。
次回は、マチ地区にあった連のお話を。

(続々)池田独自の阿波おどりとは?

2020年10月14日 16時01分19秒 | Weblog
さて前回、池田阿波おどりは、
マチ地区の商人が始めたと書きました。

ここで、徳島市内との違いが出てきます。
徳島の踊りは、徳島城下、商人町の土地が狭く、
そのため隊列を作り通りを流したのが始まり。

対して土地に余裕のある
池田の阿波おどりは、
マチ地区の神社境内や、
通りの四つ角、広場などで
輪になって踊ったのが始まりみたいです。

元々池田にあった精霊踊り
(三つ拍子というのがあったらしいですが、どんな踊りか不明です)
と混じって、広場で踊るのが主だったみたいですね。

その踊り会場を移動するおり、
踊りながら移動する事もあったらしく、
通りを踊り移動するのを「流し」と呼んでいたと聞きました。

輪になって踊るのは、
「にかわ踊り」とか、
「輪踊り」と言っていたらしいです。

まだまだ調べている途中ですが、
我が町の、しかも自分らが住んでいる地区が
池田阿波おどりの発祥の地。
自分らのご先祖が始めたんやと
わかったとき、
これはホント最高です。

(続)池田独自の阿波おどりとは?

2020年10月13日 09時17分19秒 | Weblog
池田の阿波おどり、いったいいつから始まったのか?
先ずはそこが大切。

文献には、大正元年から2年に
当時の池田商工会から徳島商工会に
指導依頼があった旨、残っている。
なので正式にカウントするなら
大正元年からということになります。

でも突拍子も無く、
いきなり阿波おどりを習うとは思えません。

そこで、昔の人の証言と、私の推測も入れて、
恐らく明治の後半に、
池田マチ地区の商人が徳島に商いで行ったおり
(当時は日帰りは考えられないので)
数日は市内に逗留しました。
そのとき、お座敷遊びとかで阿波おどりに
触れたのではと思います。

その後、地元のお座敷余興で
見よう見まねの阿波おどりを披露したのでしょう。
ここは以前に、元池田芸者の方から
「昔昔は、お座敷で踊ってたんよ」と証言を頂いています。

それが好評で、
「一つ本格的に習おうや」となったと推測できます。
大正3年、国鉄徳島線が開通したのも相まって、
盛んになったと思われます。

昔に私が、マチ地区のお年寄りから聞いた話も
だいたいこのライン。
まず間違いないと思います。

池田阿波おどりは当初、マチ地区商人が
きっかけとなり、主にマチ地区で
行われていた。
実は、ここから池田の独自性が浮かび上がります。
それは、次回に書きますね。