京都童心の会

ほっこりあそぼ 京都洛西の俳句の会
代表 金澤 ひろあき
俳句 冠句 自由律 詩 エッセイなど同好の人たちと交流

白梅の

2025-03-19 13:22:12 | 俳句
白梅の虚空にほのか舞い姿   金澤ひろあき
※中京区武信稲荷にて

再会の

2025-03-18 08:00:32 | 俳句
再会の春灯ほのぼの   金澤ひろあき
再会の おしりあたたかい
※1年ぶりに、知り合いの方に会う。新年度より就職、正式採用。新しい出発を祝う。

俳句という物語 序章 二

2025-03-17 15:09:52 | 俳句
俳句という物語 序章

 先にも述べたように、「五七五七七」から「七七」を切断し、俳句という詩が成立した時、「物語性」「完結性」を切断したはずであった。
 ところが、成立してから百年経過するうちに、「物語性」も内包するようになったのではなかろうか。
 これは例えば、小林一茶の句などに顕著である。
 秋の風乞食は我を見くらぶる    一茶
 我と来て遊べや親のない雀
 散文と短詩は、文体も世界も違うものの、「物語」構築にとって必要な要素をシンプルに述べると、
「いつ」「どこで」「誰(何)が」「どうした(どうなる)」があげられよう。ただし、日本語では、「主語」と「時制」を細かく言及しないことがあるので、「いつ」と「誰(何)が」を省略しても、物語が成立することもある。
(時制に関していえば、古語で細かいニュアンスの違いを示していた、過去「き」「けり」、完了「つ」「ぬ」「たり」「り」を、近代では一語の「た」でまとめてしまったことにも原因がありそうだ。)
 この観点で、先ほどの「有名な句」を見ると、どうなるのだろうか。
・柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺 
「何を」・・柿を  「どうする」・・食へば
「何が」・・鐘が  「どうなる」・・鳴る
一句全体の主語であり拝啓・・法隆寺
 さらに、「なり」という断定の助動詞で、「まさしくその時、鳴るのだ」と際立たせている。
 ちなみに講演で坪内氏が述べられていたように、「法隆寺」に「柿」はない。この句は、「物語的」でありながら、「事実ではありえない」光景なのである。
 ありえない光景をあり得るかのように思わせてしまう「物語の力」を持っているのかもしれない。
・三月の甘納豆のうふふふふ
「いつ」・・三月   「何が」・・甘納豆
「どうである」・・うふふふふ(擬人化)
「うふふふふ」という擬人化が楽しい句だが、この句も考えてみると、「常識ではありえない」物語である。むしろ、くそ真面目な写生から逸脱した物語が、楽しさを伝えるのではなかろうか。
・じゃんけんで負けて蛍に生まれたの
「何を」・・じゃんけんで 「どうして」・・負けて
「どうなった」・・蛍に生まれ変わった
 さらに「の」という助詞に、詠嘆・心情表出が見られる。「何を」「どうして」「どうなった」がそろう「物語性」の高い句だが、これも常識ではありえない光景。
・おおかみに蛍が一つ付いていた 
「何に」・・おおかみに  「何が」・・蛍が
「どうした」・・付いていた
 滅亡した存在である「おおかみ」を幻視し、現実の「蛍」を付ける。幻と現実の融合の物語を感じる。
 この句も「常識ではありえない」光景を物語化している。
・うしろ姿のしぐれてゆくか
 「何が」・・うしろ姿が 「どうなる」・・しぐれてゆく
 詠嘆の助詞「か」で心情を表出する。
 七七リズムの自由律であるが、短い中に物語がある。現実の自画像であるかもしれないし、心象風景を物語化しているのかもしれない。
一般に人気がある山頭火は、一句一句が「物語」と見ることもできる。自由律俳句なので、他の定型俳句と同レベルで論ずることはできないのかもしれないが、物語とそこから引き出される心情が分かりやすい。
 こうして見ると、「覚えられる句」に共通して見られる特色は、定型俳句で言えば、「常識や現実ではありえない光景を物語化」しているように思える。山頭火句も、一般の人にはあまり起こらない事象ではある。
 また、正岡子規の句を除くと、これらの句は「文語体」ではなく、「口語」(話体)である。これも繰り返される上で、大きな要因になっているのではなかろうか。
 なお「物語」は、「作者の思い」の通りに読まれるとは限らないことも付記しておこう。
 例えば、「源氏物語」の作者「紫式部の思い」は、今となっては不明である。時代と共に読まれ方がどう変わったかという「受容史」もある。
 「甘納豆」の句も、坪内氏によると、「しょぼくれた自分」を表したつもりが、別の読まれ方をされているという。(同氏の「モーロク俳句ますます盛ん」岩波書店等)

俳句という物語 序章 一

2025-03-17 13:37:12 | 俳句
俳句という物語 序章
            金澤ひろあき
 一
2024年の秋、奈良で開催された現代俳句協会大会の一番末席で、私は知り合いと一緒に、坪内稔典氏の講演を聞いていた。
 その中で坪内氏は、「皆さんの俳句は残らんでしょう。」と言われた。その言葉が、私の心に残った。
 日々多くの句が生み出されている。それらの句の中で、「残る句」と「残らない句」があるのは事実だ。
 残らない句のことを考えても空しいので、では残る句とは何だろうと考えてみた。

 俳句とは面白さと共に、やっかいさを持つ短詩だ。説明ではいけないと言われる。
 短歌「五七五七七」は、抒情的な物語を描くことができる。「物語」だから、説明も入っている。そして、結論を歌い上げることができる。自己完結の世界であると言えよう。
「五七五七七」の「七七」を切断し、俳諧連歌として出発した時、俳諧は一句での自己完結性を切断した。抒情的な物語性も切断した。
 このことは多くの論者が既に言及している。(例えば、柄谷行人氏の「漱石論」など)
さて、あまり俳句を知らない人に、「あなたが知っている近代の有名な俳句をあげてください。」というと、だいたいこんな句があげられる。
・柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺    正岡子規
・三月の甘納豆のうふふふふ     坪内稔典
・じゃんけんで負けて蛍に生まれたの 池田澄子
・後ろ姿のしぐれてゆくか      種田山頭火
・おおかみに蛍が一つ付いていた   金子兜太
(但し個人差があるので、例として挙げた句は公約数的なものである。)

どこで知ったのですかとたずねると、大半が「学校の国語の授業で」という答えが多い。学校教育の力が大きいと実感する。と同時に、「なぜ学校で習ったことを今も覚えているのですか。」とたずねると、「分かりやすかったから。」「短いし、覚えやすかったから。」「面白かったから。」という答えが返って来る。
 これらの「分かりやすさ」「面白さ」は、何に起因するのだろうか。
 冒頭に登場していただいた坪内稔典氏は、「片言性」と指摘されているが、「片言性」だけで説明できるのだろうか。
 例えば、幼い子供達の片言を、聞いた時は、「分かりやすい」「面白い」と思うが、それをずっと「覚えている」にまで至っていないのは、なぜだろうか。
 覚えられる句には、人の心をくすぐる「物語性」を持っていて、その物語が何度も反復・増大されるからではないだろうか。


雨に梅

2025-03-17 11:41:05 | 俳句
長岡天神
雨に梅 古今伝授の神の庭 金澤ひろあき
※細川幽斎が古今伝授を受けた地。
雨に梅 合格どら焼き販売機