京都童心の会

ほっこりあそぼ 京都洛西の俳句の会
代表 金澤 ひろあき
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俳句という物語 序章 一

2025-03-17 13:37:12 | 俳句
俳句という物語 序章
            金澤ひろあき
 一
2024年の秋、奈良で開催された現代俳句協会大会の一番末席で、私は知り合いと一緒に、坪内稔典氏の講演を聞いていた。
 その中で坪内氏は、「皆さんの俳句は残らんでしょう。」と言われた。その言葉が、私の心に残った。
 日々多くの句が生み出されている。それらの句の中で、「残る句」と「残らない句」があるのは事実だ。
 残らない句のことを考えても空しいので、では残る句とは何だろうと考えてみた。

 俳句とは面白さと共に、やっかいさを持つ短詩だ。説明ではいけないと言われる。
 短歌「五七五七七」は、抒情的な物語を描くことができる。「物語」だから、説明も入っている。そして、結論を歌い上げることができる。自己完結の世界であると言えよう。
「五七五七七」の「七七」を切断し、俳諧連歌として出発した時、俳諧は一句での自己完結性を切断した。抒情的な物語性も切断した。
 このことは多くの論者が既に言及している。(例えば、柄谷行人氏の「漱石論」など)
さて、あまり俳句を知らない人に、「あなたが知っている近代の有名な俳句をあげてください。」というと、だいたいこんな句があげられる。
・柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺    正岡子規
・三月の甘納豆のうふふふふ     坪内稔典
・じゃんけんで負けて蛍に生まれたの 池田澄子
・後ろ姿のしぐれてゆくか      種田山頭火
・おおかみに蛍が一つ付いていた   金子兜太
(但し個人差があるので、例として挙げた句は公約数的なものである。)

どこで知ったのですかとたずねると、大半が「学校の国語の授業で」という答えが多い。学校教育の力が大きいと実感する。と同時に、「なぜ学校で習ったことを今も覚えているのですか。」とたずねると、「分かりやすかったから。」「短いし、覚えやすかったから。」「面白かったから。」という答えが返って来る。
 これらの「分かりやすさ」「面白さ」は、何に起因するのだろうか。
 冒頭に登場していただいた坪内稔典氏は、「片言性」と指摘されているが、「片言性」だけで説明できるのだろうか。
 例えば、幼い子供達の片言を、聞いた時は、「分かりやすい」「面白い」と思うが、それをずっと「覚えている」にまで至っていないのは、なぜだろうか。
 覚えられる句には、人の心をくすぐる「物語性」を持っていて、その物語が何度も反復・増大されるからではないだろうか。


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