藤宮の次郎左衛門が紫峰家を訪ねたのは何年ぶりのことだろう。実家とはいえ、若いうちは養子先への遠慮があったし、藤宮が自分の代になってからは多忙で足が遠のき、隠居してからは用があれば長男輝郷に託けることが多くなった。
当然、兄一左ともここ何年かはほとんど顔を合わせていない。久しく見ぬ間にずいぶん容貌が変わったものだと次郎左は思った。
「一左よ。和彦は15の誕生日にはすでに紫峰家の跡取りとして相伝の儀式は済んでおった。だのに冬樹はまだ前修行すら終わってない。俺も年をとったが、おまえさんは一つ上だ。いつお迎えが来てもおかしくない。急がねば紫峰家はこの代限りとなってしまうぞ。」
次郎左が声高に言うと、一瞬一左は怯んだように見えた。次郎左は何か引っかかるものを覚えたが、あえて口には出さなかった。
「わしも考えてはおるのだが、何しろ冬樹はあの体たらくでの。相伝に適うようなチカラを持ち合わせておらん。徹人の時にはすでに成人しておったから豊穂をもらって豊穂に伝えたが…。このたびも冬樹が成人するのを待ってだれぞチカラを持つ嫁をと…考えておる。」
一左は黙っておれと言わんばかりに次郎左に負けないくらい声を張り上げた。しかし、次郎左にはどうも目の前の一左と名乗る男が昔のような自信にあふれた兄とは違い、虚勢を張っているだけのように見えた。
「修や透なら今でも十分に相伝に耐えられるはずだが…。おまえさんがそこまで冬樹にこだわるわけが解らんて。まあ…いい。紫峰のことは紫峰が決めればよい。
だが…間もなく冬樹も15じゃ。それまでに前修行くらいは行え。さもなけば、冬樹跡取りの件はなかったことになる。これは親類全部の総意じゃ。一族を代表してこの次郎左が確かに伝えた。」
次郎左が一族の総代を名乗ったからには、一左も無視を決め込むわけにはいかない。事あれば一左を隠居させて修や透を宗主にたてるだろう。それならまだいいが、藤宮が紫峰に宗主を送りこんでくるおそれがある。それだけはなんとしても避けなければならなかった。
「そうさの。前修行くらいなら始めさせてもよいかもしれぬて。いや、わしもうっかりしておったわ。早速、準備にかかろうかの。」
一左はさも納得したようなふうを装い、次郎左に礼を言った。次郎左は言うだけ言うと、一左がしきりに食事を勧めるのを、まだ寄るところがあるからと鄭重に断り紫峰家を後にした。
車が紫峰家を出たところで、運転手が声をかけた。
「真っ直ぐ戻られますか?御大?それともどこかへお連れしますか?」
「そうだな。このまま帰るか…。いや…急がねば。貴彦のところへ寄ってくれ。」
事態は一刻を争う。次郎左はそれを感じ取っていた。貴彦や修の話からある程度は予期していたこととはいえ、これは紫峰ならずとも、藤宮にとっても一大事であると確信した。
『一左は相伝を行うチカラを持ち合わせていないのでは…。そればかりか、相伝の内容さえ、知らぬのではあるまいか…。』
しかし、亡くなった修の父和彦には確かに相伝の儀式は行われたのだ。確かにその時には間違いなく一左の手で…。
そこまで考えた時、次郎左は思わず背筋がぞっとした。もし次郎左の勘が正しいとすれば…。
『原因不明のまま、30年近くも…紫峰が苦しんできたというのに…。』
この時次郎左は、もはや自分の勘を疑うことさえなく、また、貴彦や修の考えにも間違いのなかったことを確信していた。紫峰家の黒い闇は意外にも身近なところに端を発していた。
次回へ
当然、兄一左ともここ何年かはほとんど顔を合わせていない。久しく見ぬ間にずいぶん容貌が変わったものだと次郎左は思った。
「一左よ。和彦は15の誕生日にはすでに紫峰家の跡取りとして相伝の儀式は済んでおった。だのに冬樹はまだ前修行すら終わってない。俺も年をとったが、おまえさんは一つ上だ。いつお迎えが来てもおかしくない。急がねば紫峰家はこの代限りとなってしまうぞ。」
次郎左が声高に言うと、一瞬一左は怯んだように見えた。次郎左は何か引っかかるものを覚えたが、あえて口には出さなかった。
「わしも考えてはおるのだが、何しろ冬樹はあの体たらくでの。相伝に適うようなチカラを持ち合わせておらん。徹人の時にはすでに成人しておったから豊穂をもらって豊穂に伝えたが…。このたびも冬樹が成人するのを待ってだれぞチカラを持つ嫁をと…考えておる。」
一左は黙っておれと言わんばかりに次郎左に負けないくらい声を張り上げた。しかし、次郎左にはどうも目の前の一左と名乗る男が昔のような自信にあふれた兄とは違い、虚勢を張っているだけのように見えた。
「修や透なら今でも十分に相伝に耐えられるはずだが…。おまえさんがそこまで冬樹にこだわるわけが解らんて。まあ…いい。紫峰のことは紫峰が決めればよい。
だが…間もなく冬樹も15じゃ。それまでに前修行くらいは行え。さもなけば、冬樹跡取りの件はなかったことになる。これは親類全部の総意じゃ。一族を代表してこの次郎左が確かに伝えた。」
次郎左が一族の総代を名乗ったからには、一左も無視を決め込むわけにはいかない。事あれば一左を隠居させて修や透を宗主にたてるだろう。それならまだいいが、藤宮が紫峰に宗主を送りこんでくるおそれがある。それだけはなんとしても避けなければならなかった。
「そうさの。前修行くらいなら始めさせてもよいかもしれぬて。いや、わしもうっかりしておったわ。早速、準備にかかろうかの。」
一左はさも納得したようなふうを装い、次郎左に礼を言った。次郎左は言うだけ言うと、一左がしきりに食事を勧めるのを、まだ寄るところがあるからと鄭重に断り紫峰家を後にした。
車が紫峰家を出たところで、運転手が声をかけた。
「真っ直ぐ戻られますか?御大?それともどこかへお連れしますか?」
「そうだな。このまま帰るか…。いや…急がねば。貴彦のところへ寄ってくれ。」
事態は一刻を争う。次郎左はそれを感じ取っていた。貴彦や修の話からある程度は予期していたこととはいえ、これは紫峰ならずとも、藤宮にとっても一大事であると確信した。
『一左は相伝を行うチカラを持ち合わせていないのでは…。そればかりか、相伝の内容さえ、知らぬのではあるまいか…。』
しかし、亡くなった修の父和彦には確かに相伝の儀式は行われたのだ。確かにその時には間違いなく一左の手で…。
そこまで考えた時、次郎左は思わず背筋がぞっとした。もし次郎左の勘が正しいとすれば…。
『原因不明のまま、30年近くも…紫峰が苦しんできたというのに…。』
この時次郎左は、もはや自分の勘を疑うことさえなく、また、貴彦や修の考えにも間違いのなかったことを確信していた。紫峰家の黒い闇は意外にも身近なところに端を発していた。
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