一青窈「さよならありがと」

2005年12月27日 23時15分09秒 | 巻二 起居注
「さよならありがと」
一青窈さん「&」の、最後の曲。

「えこひいきした道を折れて」とか
心に残らざるを得ない言葉が詰まった珠玉の名曲。

そして、このアルバム全体のなかでも特にココロの枝端に引っかかった言葉、
それが
「また少しだけ君のこと/無断で好きになったけど」。

---------- ヤマオリ -----------

ここからは主観的一般論的恋愛論?
たぶんどんどん話が逸れるので、
どうしようもなくお暇な人以外は、この地点での読了を推奨します。

---------- キリトリ -----------

残念ながら、ヒトを好きになる瞬間というのは
必ず相手に断りもなくその気持ちが湧き出てくるんだろう。

そして、それは「はじまりの瞬間」に限らず、
その相手のことを日に日に時を重ねるごとに想いを募らせるときでも
やっぱり、結構勝手に自分の中で気持ちを積み重ねていく。

まるでそれは、
親に見つからないように陰でせっせと積み上げた、
幼い頃の積み木遊びであるかのように。

結局そうして増幅されていく気持ちというのは、
相手の状態=気持ちとか、さらにはテンションとかTPOとかとは無関係に、
自分の満足のために積上げられていくのかも知れない。

いや、
誰もがそうだとは決めつけるつもりもないけれども、
自分の中の主観的一般論では、そういう気がしてならない。

一青さんはこの曲でこう言う。
「今でもきっと/僕、の方が」。
そして最後には
「今ならきっと僕の方が」。

今でもきっと僕の方が(君のことを想っている)(君が僕を想うより)
…そういう意味なのかなと今のところは感じてる。

想い想われることはアンバランスで
時としてものすごく一方通行。

その一方で
今でもきっと僕の方が(悪い。←別れの原因)
こんなふうに読んでもいいのかなとか。
だってこの歌の詞はずーと、
戻らない日々を悔やむ気持ちが奥底に流れてるような気がするから。
清々(スガスガ)しくさえある、悔情の滴。

…じゃ、「今ならきっと」は?
今ならもっとうまくやれる。
今なら絶対放すことはない。…

歌詞の一字一句の解析なんてあんまり好きじゃないけれども。

---------- タニオリ -----------

互いに好きなのに別れなければならなかった友人の話が
この詞のベースになっている、と一青さんは言う。
そして、そんな別れを最近自分もした、とほのめかしていた。

でも聴いてる自分にとっては、実はそういう背景は重要じゃない、のかも。
重要じゃない、というと語弊だらけか。
自分がこの歌に、とても深い場所で共感できることで、十分というか。
…もちろんあくまでも一般論として。

---------- トシノセ -----------

ことしも終演を迎えようとしている。
いろんなことがあった。
ていうかあり過ぎた。
ふつうのとしの3ねんぶん位の1ねんだった。
だからそれを振り返るにも
こんな長ったらしい冗長なコトバに頼ってしまう。

そんな歳の最後に
一青窈さんのすばらしき作品を聴けることに。
年年歳歳、移ろいゆくように。

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