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昨晩は寒かった。ストーブつけっぱなし。
で、今朝外を見ると初雪。初積雪でした。
ですが、すぐに融けるんでしょうね。
立春を過ぎてやっと冬の始まりです。
昨晩のこと
スキニシー学校でたき火をして、夕方も火が残っていたのと、暖冬で夜の冷えもさほどではなかったので、恒例のお外で晩ご飯でした。
冷凍庫から豚肉を出して、ヤマイモをホイルでくるんで、大根をいちょう切りにしてお醤油とマヨネーズをかけてホイルでくるんで、シイタケやニンニクも用意して、あとはたき火にお任せ。
お肉や野菜など購入する食料品のほとんどは、安全農産供給センターで注文しています。いつもながらお肉が美味しいです。
冬の澄んだ夜空の下、パートナーとおさ○で乾杯です。
たき火を眺め、焼けたお肉や野菜をつまみ、おさ○を頂く、たき火をいじる、の繰り返し。
我が家は駅からも遠く、バス亭まで徒歩30分もかかり、帰りの終バスが21時頃と赤ちょうちんには恵まれませんが、自宅で楽しいたき火で一杯ができるのが幸せです。
今年も何回、たき火で一杯をやるのかなぁ。やった分だけ幸せになれます。
今日は1995年の阪神淡路大震災から25年の1月17日でした。
毎年この日になると思い出します。
実家の滋賀から離れ鹿児島で一人暮らしをして、何気なく登校した朝、友人たちに「お前の実家は大丈夫か、関西は大変なことになっているで!」と言われました。
当時アパートにはテレビもなく、ラジオも時々しか聞いていなかったので、何のことか分からないまま、テレビが映っているところへ行き、その惨状を知りました。
ありがたいことに、滋賀の両親宅は大きな揺れ以外には何事もなく二人とも無事でした。
その春に帰省して、滋賀の友人に誘われて炊き出しのボランティアに行ったのが最初でした。
「自分にも何か出来ることがある」と強く感じました。鹿児島でボランティア活動を始めました。
現在の私につながるたくさんの出会いが始まったのは、この25年前でした。
一人暮らしの障がいのあるおじさんの生活を手伝いながら、自分も生きることを学びました。
「子どもの遊びボランティアなんてなぁ」と思いながらも参加した鹿児島YMCAの活動から、今でも子どもと関わっています。
震災があって、友だちに誘われて、ボランティアを始めて、スーパーに貼られたたった1枚のボランティア募集のメモを見なければ、今こうして暮らしていることはなかったと思います。
何かのきっかけで、生き方が変わり、人生が進んでいった25年です。
なぜでしょうね?今でもはっきりと覚えています。大学の教室で友だちに地震の発生を教えてもらったこと、公衆電話を探してアパート近くを走り回ったこと、テレビ画面とは違い自分の目で見た神戸の惨状、友だちに電車内で語ったこと、ダイエーに貼られていたボランティア募集のチラシメモ。。。
覚えようとしていたことではないのに、写真も残っていないのに、カラーで思い出せます。
あれから25年、あっという間の25年でした。
写真は、2011年の鹿児島の桜島です。
1月14日は、在所の左義長でした。なぜか15日ではなく、14日でした。理由を聞くと、14日だと消防関連がやかましくないからとのこと。周りも14日だから、うちも14日でとのこと。
不思議な日程ですが、まぁ細かいことはどうでも良く、先日皆さんと準備した竹に点火して、お正月の飾り物や竹が燃えて、高く炎が上がるのが楽しみです。
点火も、その年の年男や年女が務めるらしい(今年は子年)のですが、ちょうど誰もおられず、来年の干支の丑年の方が務めてくださったとのこと。
点火の後は、お酒を飲みながら、神社からいただいたお餅を焼いて、ちょっといい気分になりながらおしゃべり。
今年は雪もみぞれも降らずでしたので、寒さに凍えずで助かりました。
浅柄野は、長野県伊那からの開拓2世の方々がまだまだ元気で頑張っておられ、頼もしい限りです。
そして、そこへ3世の若いパワーある方々が入って、村を作っていけるといいなぁと炎に願う左義長でした。