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旧える天まるのブログ
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『まちの腰かけ』避難所

2021-03-08 11:01:43 | まちの腰かけ

 とある文化ホール。指定避難所にもなっている敷地内の腰かけです。

 2011年・3月11日・東日本大震災の発生後にここの建物に避難しました。多くの人々がホール内で不安な日々を過ごしました。電気はとまり、建物の中ではラジオの電波は届かないので、ここの花壇にラジオを置き、ここに立ち寄っては世の中の被害状況を聴いていました。

 そこで夕方から夜にかけ津波の被害状況がアナウンスされるようになりました。僕はその晩、ほぼここで夜を過ごしました。ラジオからは一晩中地震や津波被害の安否確認や被災情報が鳴り響いていました。

 ホールに避難したものの、トイレはすぐに満杯になり、夜中にようやくここの腰かけの前に仮設トイレが並びました。

 朝になると数台の給水車が止まり。多くの在宅被災者で水を求め行列になりました。その翌日には、滋賀県長浜市からの給水車が毎日水を給水していました。その様子はここに並ぶ腰かけから毎朝眺めてました。

 文化ホールはまち自慢のホールでした。設計にはとくに音響効果は他のまちの文化ホールより良いと、当時、ここに文化ホールを建てることを奨めていた議員さんは言ってました。そして施設にはその当時の技術で耐震設計がなされてました。

 ここはかつて、小学校が建てられていた場所で、その頃の小学校は木造建築で大きさはありましたが、その時あった大地震で傾き、衝立で補強された小学校でもありました。僕が在学中には宮城県沖地震(1978)をここにあった校舎で体験しました。

 宮城県沖地震(1978)の時は、まちで一番大きな体育館が壊れてしまい被害に遭いました。そこには多くの歌手や文化人を招いてショーが行われていました。僕が観たのは・さとう宗幸さんと千昌夫さんのコンサートを観ました。当時流行りのコンサート内容でした。千昌夫さんのボストンバックを持ちながらのショーを生の姿で見れたことが思い出にあります。

 それから時が経ち、ここに文化ホールが建てられ、指定避難所にもなりました。ここに立ち夜をすごしていると「だいじょうぶですか?」と一言あったりもしました。夜はここで寝泊まりし、昼は自宅にもどり片付け作業の日々が続きました。ラジオからは地震被害、津波被害、原発事故の情報がアナウンスされていました。一週間はここで過ごしました。その後も帰れない人々や水道が通らない世帯もいて、給水車はずっとしばらくここで給水作業を行ってました。

 長浜市と記された給水車のことが忘れられなくて、その後、滋賀県長浜市の長浜城まで訪ねました。駅についてタクシーの運転手さんに震災当時のことを伺いました。滋賀県は震度3の地震があったようで、当時停車中に揺れを感じたそうです。「最初、誰かが車を揺らしていたんじゃないか、と思った」と、おっしゃってました。この辺でもあまり体験したことのない揺れだったようです。

 琵琶湖に面したまちから、給水車両が駆けつけてくれました。

 あの日のことが思いだす。まちの避難所の腰かけです。

 あれから10年。なにもいいことがない10年になりました。コロナ過になって「何かあなたにいいことはなかったですか?」と尋ねられても「何もなかった。悲しい気持ちになるだけでした」。率直にそう答える言葉しが頭に浮かびませんでした。

 震災から10年。小中をともにした同級生が、年齢的には若くして4人は亡くなりました。毎日、消されるような思いをしながら、未来のない暮らし。高卒でいれば大卒。大卒。大卒。大卒以下は消去。

 震災時、おにぎり一個で過ごしましたが、いまだにおにぎり一個だけで暮らしているようなものです。自分を誤魔化せば100個にでも200個にでもなりますが、誤魔化さなくなると、どんどんと減ってゆき、気が付けば見えなくされてます。「何かあなたにいいことはありましたか?」「なにもなかったですね」。

 いいことがあったとしても、波に消される日々。それが震災から10年目を迎えた現在です。

 思い出すのは給水車両が遠くから来てくれて「ありがたいなー」と思ったぐらいで、その後は、高卒以下は消去、消去、消去されてるんだなと、思うようになりました。

 内閣府が大学進学支援事業を広報しても、やっぱり高卒以下は消去してたんだな。と思うだけでした。

 自分には何もいいことはない。辛くて悲しいだけです。あの時、死んでればよかった。そう振り返るだけです。

 

 


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『まちの腰かけ』境界

2021-03-04 16:17:22 | まちの腰かけ

 とある東屋がある場所の憩いの広場の風景。

 東屋の袂に腰かけもおいてあり、多目的な憩いの場ではありますが、この場所はまちの境界線も意味する場所であり、ふたつの行政がともに隔たりを解消するがためにまちを跨ぐ大橋が造られました。

 昔は、川上から川下に流れる河川を利用して材木や俵(米)などを運び、港まで着けば、そこから船で江戸の街へと運ぶ商いで栄えてました。その拠点になる地域は現在に至るまで発展し続けました。

 河川の利用はまず、自然がおりなす幹線道路で、行先が港まで繋がってることと、大地(平地)を歩くよりも盗賊などに襲われ難く、安全な運搬がしやすかったのではないか。と思っています。

 川上から川下へ運搬する途中で藩の管轄も変わります。村、町、市、複数の村や町が隣接し境界地域なるものも通ります。

 河川による運搬は安全を担保することが目的ですので、警察の管轄が隣りのまちの警察の管轄エリアに移動しても、物資の安全は確保されてなければなりません。

 ただし、古き時代の因縁というものありまして、藩になる前は国境の拠点をめぐって武将同士で取って取られての小競り合いもありました。

 東屋があるほうにはトイレがないのですが、手前のほうにはトイレがあり、トイレを占領されドアが閉まっていると誰もが大変な思いをするのは想像できますでしょう。それ以上に破壊されてたりしたら、どうしようもなくなります。トイレの破壊は現代に起きたことですが、昔は、物流の拠点を武将家臣が取ったと思えば、その武将が相手方に寝返ったりと、武闘派の権限というのはめんどくさかったりもしました。

 昭和から平成になり、落ち着き始めた頃に境界管理河川という名目で、まちを跨る大橋が架けられました。警察署の管轄エリアの最前線となる場所に大橋が建てれました。そこに憩いの場所となる腰かけなども置かれるようになりました。

 橋を散歩すると、目を楽しませてくれるものがありました。

 ここの場所は、ないと漏れそうで困る場所。あると助かったと思う場所にある。憩いの境界管理広場の腰かけです。

 


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『まちの腰かけ』土手

2021-02-27 18:46:55 | まちの腰かけ

 とある土手の風景。かつてはこの土手に腰かけモトクロスを観ていたまちの腰かけてた跡地です。

 昭和40年代から50年代。覚えがある中では小学1年生ぐらいから中1ぐらいまですが、自転車に乗って自由に移動し始めたぐらいから、毎年、春になるとオートバイのモトクロス大会が開かれ観に行ってました。バイク音と土煙が沸き立つ中で、オフロードバイクのノービスクラスだったと思うのですが、モトクロスレースを土手に腰かけバイクを追いかけてました。

 春祭りの日に合わせて行っていた行事にモトクロスのノービスクラスレースが行われ、春になると、桜見物の他に互市とモトクロス大会があるのがまちの恒例行事でした。

 僕は小学生ぐらいから中1ぐらいまで。始めは爺さんに連れられて観たことから、小学生の子供どうしで出かけるようになり、小学生気分も抜けきれない中学1年生ぐらいまでは好んで観に行ってました。

 中学2年生ぐらいからは、大人びてちょっと行かなくなったような。

 中にはそこで下級生相手にカツアゲを試みた輩もいて問題になったような‥‥‥。教室で注意事もあったように思います。

 平成になるか、ならないかぐらいにはモトクロス大会は開かれなくなりまして、その会場の痕跡は現在のような水溜まりとなって当時のレース場で兵どもの夢の跡になってます。

 モータースポーツの中でもモトクロスはマイナーですが、その中でもノービスクラスの大会でしたから有名で大きな大会ではありませんでした。それでもオフロードバイクから放つモーター音と迫力は、春の訪れをまちに響かせ躍動してました。

 現在はモータースポーツ会場に代わってパークゴルフ場となり、時々、競技会なども行われたりもしている土手の腰かけです。

84年トランスジャパンモトクロス

 僕はバイクの趣味としてはオフロードタイプのほうが好みでした。高校を卒業してバイク通学を終えて使わなくなったバイクを買い受けたのがホンダMTX50だったように思うのですが

 

ホンダ (HONDA) MTX50

MTX50は、1982年3月に発売されたランドスポーツモデル。1979年に発売されたMT50が前身で、より本格的なオフロードモデルへの発展的...

 

 

 

家に置いてたら盗まれましてダメにしてしまいました。このバイクで通勤中に35キロオーバーで速度違反して免停と未成年だったので家庭裁判所までいきました。

 

ハスラーの歴史

1981年当時のフルサイズ50ccクラスは、とってもハッスルしていました。   スズキ  TS50ハスラー ...

 

 

 通勤で必要な時に母親が知人から譲り受けたのがスズキのハスラー50でした。これもまた盗まれまして、代わりにスクーターが来ました。

 

【蘭、咲きました】キャンディーズのランちゃん登場!ストリートに咲くスクーター美人、スズキ「蘭」のポスター。貴方の胸を躍らせたバイク広告は何ですか? - LAWRENCE - Motorcycle x Cars + α = Your Life.

バイクの広告、見ているだけでワクワクしちゃいますね。前回はスズキ VANVANのド派手ポスターをご紹介しました。今回は、女性向けのおしとやか...

 

 

 

ミニチュア・ピンシャー

 

 

 

 飼いたい動物で好きなのがミニチュア・ピンシャーです。ペットショップでみつけるとついついほしくなります。

 


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『まちの腰かけ』シンボル

2021-02-24 15:20:17 | まちの腰かけ

 とある交差点の歩道に設置してあるシンボル的なまちの腰かけ。

 交通量の多い場所なのですが、非常に目につきやすい場所なのですが、さりげないやさしさもある腰かけです。

 腰かけはさておいて、ここは人目につきやすく、ここに立ちいろいろなメッセージを示したりする姿も見うけることがあります。

 地元の人には関心がないようなお飾りみたいな腰かけですが、実際、この辺まで歩くと疲れも感じまして、お年寄りや身体が弱い方はついつい腰かけたくもなるような場所でもあります。

 初めて訪れた方々にも、ここに腰かけがあるとちょっとほっとした気持ちにもなります。

 このまちにいると方角が大雑把になりやすく、北と南も大雑把に思い込んでしまい思い違いもたびたびあります。

 ここに腰かけたとき、方角を示した絵が描かれてまして、「正確には北はあっちだったんだと」と関心しました。

 昔はここに大橋があり、かつてはまちにひとつしかなかった橋でした。別な場所に新たに大橋が建設されまして、古い橋は取り壊しました。一時期、新たな橋が第一大橋だと思い込んだことがありました。

 古い大橋はリニューアルしまして、物の順番から言えば二番目に造られた橋が第一大橋に代わると思ったのですが、三番目に造られた大橋が第一大橋として現在に伝わってます。

 順番からすれば二番目に造られた大橋のほうが先輩なのですが、このまちでは初めに造られた大橋がある場所を第一大橋と呼ぶことになりました。

 心情的には不便だったことで造られた第二大橋ですが、そちらを第一大橋としては扱わず、まちの中心部でもあるがため、ここから通る橋をまちの第一大橋として現在に引き継いでいます。

 年を重ねればいろいろな景色が移り変わり、感情の揺れも起きたりもしますが、情に流されず頑固な一面もある、まちの腰かけです。


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『まちの腰かけ』城内

2021-02-16 10:15:18 | まちの腰かけ

 平成になってからのことですが「なぜここに!」と、思った。とある腰かけが置かれた地域。

 車で歩くと通行人がほとんど歩いていない地域。夏は日照りで暑く、冬は吹雪や暴風に煽られ、雨宿りするにもすぐにはたどり着けない難儀な地帯に、ちょっとした広場を見て「税金の無駄じゃないか!」とも思った腰かけがあったエリアです。

 ここは僕が幼い頃から『城内』と呼んでた地区の入り口です。母親は「城内、城内」と呼んではいるものの、あまりこの辺には近寄らなかった。自分たちからしてみれば格式の高いエリアだと子供心に感じとっていました。田舎では本家と分家とがあり、僕の爺さんは次男坊で、本家から土地を分けてもらい住んでいたこともあり、本家には頭が上がらないでいた節も感じていました。

 今は神社が祀ってありますが、山王館 かつてはお城としての役割があった場所です。他から見れば城下とも言えないほどの小さな集落ですが、そこに住む住人からしてみればお城、殿様もいたところで。その小高い場所から前方を眺めると田園風景ではありますが平野部一帯が一望に見えました。

 資料を調べると、古内家がここに移り住み周辺を整備したという資料が出てきました。古内家は、千代城主(仙台城)国分氏に仕えていたところ、伊達家との対立が起きたときには伊達家側について、その後はこの地に移り住み、そこでの功績から伊達藩二代藩主忠宗のときには筆頭家老までなり。忠宗が死んだときには、ともに殉死したとありました。所説あると思いますが、その後は有名な『伊達騒動』があり、その渦中に巻き込まれた感もあり、その後はほっとかれたようにも‥‥‥。

 今は神社として祀られてますが、江戸時代には城主とは言えず、館主。その系統からだと、能が開かれていたのではないかと。僕のほうは祭りの日にはお囃子を舞い。別の神社に行っては神楽を鑑賞してました。

 ここにある腰かけの風景を見て、選挙で当選したひとりの議員がその業績をこの地に託したようにも思いました。

広島神楽団「八岐大蛇」

 別談になりますが、子供の頃の思い出として、とある神社では神楽大会が毎年のようにありまして、大会の基準はわかりませんが、そこに審査員を招いてその演舞の査定で全国大会に行ったような行かなかったような。少年時代でしたので大人の事情は知りませんが、子供の頃は神楽の『八岐大蛇』で、胸をときめかしていました。神楽大会があった日には遠くの方までその音色が一日中なり響いていました。


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