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旧える天まるのブログ
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フルニエ、メルサンディ、最終グレイツェルクエストをやる。ネタバレあり(注意)

2021-08-19 19:04:07 | 雑記の宿

フルニエ、メルサンディ、最終グレイツェルクエストをやる。ネタバレあり(注意)

この動画は株式会社スクウェア・エニックスを代表とする共同著作者が権利を所有する著作物を利用しております。また、動画に使用されている楽曲はスギヤマ工房有限会社が権利を所有する著作物です。当該動画の転載・配布は禁止いたします。 (C)2012-2016 ARMOR PROJECT/BIRD STUDIO/SQUARE ENIX All Rights Reserved. (C)SUGIYAMA KOBO (P)SUGIYAMA KOBO

 今回はゲーム配信。前回も行ってみましたが、その続きのクエストを動画に残しました。演目の予定もありますが、メンテナンスが途中であったりとじっくり撮影してる暇がありませんでした。

 緊急事態宣言中の最中でもありますし、自宅で籠ってる方はごゆるりとご覧ください。


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フルニエ、ストーリークエストをやる。真メルサンディ村 DQX動画 ネタバレあり(注意)

2021-07-30 00:04:27 | 雑記の宿

この動画は株式会社スクウェア・エニックスを代表とする共同著作者が権利を所有する著作物を利用しております。また、動画に使用されている楽曲はスギヤマ工房有限会社が権利を所有する著作物です。当該動画の転載・配布は禁止いたします。 (C)2012-2016 ARMOR PROJECT/BIRD STUDIO/SQUARE ENIX All Rights Reserved. (C)SUGIYAMA KOBO (P)SUGIYAMA KOBO

フルニエ、ストーリークエストをやる。真メルサンディ村 DQX動画 ネタバレあり(注意)

  コロナ過の中、猛暑が続いてる最中、真夏はゲームばかりしています。久しぶりにストーリークエストを進めてみました。現在バージョン5ですので、今回のはバージョン2のですから、数年前に実装されたものですがこれから行うという方はネタバレありですのでご注意ください。職業はデスマスター。バージョン5から実装した職業でやってみました。あまり参考になりませんがごゆるりとご覧ください。(1時間18分)

 真夏のパークゴルフ

 真夏なので午前中にパークゴルフをやってみましたが、午前中から暑かったです。猫背状態が続いてることもあるのか、背中のお肉が若干気になりました。お腹周りもまだまだ気になるところです。暑さのためこの日はハーフラウンドで帰りました。

 


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『雑記の宿』BOØWYと私とIQ

2021-04-11 15:47:08 | 雑記の宿

 

『BOØWY・わがままジュリエット』

 BOØWYとの関りはこの曲からでした。第一印象は非常に食いつきやすい曲で、『わび・さび』と言いますか、1986年・85,6年頃は『わび・さび』ワールドといいますか、お笑い芸人の『ちびっこギャング』がなぜかメディアに登場してまして、ちびっこギャングのギャグは今振り返ると記憶になくて、キャラクターとしては『わび・さび芸人』が当時はもてはやされた時代だったように思います。

 ツービートの北野武もインパクトはあったけど、ちょっと低迷期でもありました。で、『わび・さび』にシフトしたのが

 

 

 映画で北野武は『わび・さびキャラ』をスクリーンでは演じるようになりました。

『ちびっこギャング』も映画まで登り詰めましたが、共通してるのは「面白くない」。面白くなければ面白くないほど、時代はウケていたようにも、おもしろい武さんにはちょっと酷だったかも‥‥‥。「面白くないけど、わび・さびがある」そういうのを、なんかもとめていたように思いました。

 『とんねるず』は『面白くない!!』が爆発しまして。『松永弾正』なのか、面白くない人たちの仲で戯れてました。『とんねるず』も『わび・さび』を売りにした芸風でした。

 BOØWYとの関りは『わがままジュリエット』。ここまででした。

 1986年に両親が建てたマイホームが、競売で競り負けまして。家を手放すことになりました。競売で落とせれば家だけは残せたのですが、相手側のほうが高い値をつけてました。

 家以外はほとんど差し押さえ状態で、残りは競売にセリ勝つしか他に手段はありませんでした。1986年の1月~3月は、僕はほったらかしで、競売に命運をかけて両親は全集中してました。親父も大手会社に再就職して準備万端ではあったのですが、3月ぐらいに「だめだった」という知らせがあり、ドラマの世界にしかありえないような事態が起きました。

 新年度の4月を目前に立ち退くことが決まって。親父も会社から「怪しい」ということでクビされました。真面目な父親でしたが無情な裁きでした。一流メーカーに就職して、そのメーカーの商品契約は継続して、クビになった会社なのに「親父もお人好し過ぎる」と思いました。

「自分の熱意が伝わった」と自画自賛していた会社でしたが、急遽クビになって、何がなんだかわからないでいました。世間は詳細は知ってると思いますが、僕には届きませんでした。

 僕が就職して1週間は、両親のマイホームから会社に通いました。4月の二週目に引っ越しました。僕が小学校1年生の時に起きた状況とまったく同じような廻りあわせでした。あの頃も土地は確保してあって、そこに家を建てる話しまでは聞いた覚えはあるのですが、なぜかそれが頓挫しました。

「なんでこうなったのか‥‥‥」わけがわからずにいました。

 事情や説明は聞かされてませんでしたが、今思えば、実家の親に相談もなく先に物事を決めて進めていたことが要因だったのかもしれません。

 僕から見ても、両親共々『わび・さび』のある人ではありました。

 それとBOØWYに何が関係あるのかと申しますと、僕はBOØWYは『わがままジュリエット』までしかついていけなかったからです。BOØWY好きの人・僕の印象だとIQといいますか、偏差値が高い人ほどついていってたように思いました。

 BOØWYが流行していた時には『ファミコン』も定着しつつありました。そしてシューティングゲームが主流でした。BOØWY好きの友達は大学に受験してもすんなり合格するようなIQが高いやつで、ゲームもまあ得意でした。僕の身近な友達はシューティングゲームをやらせれば僕よりはるかに偏差値が高く、ワンプレイで次々とクリアしていくんです。高卒でしたが、難関の公務員試験を合格したほどでしたから。そのときに言っていたのは「死ぬほど勉強した」と言ってました。

 『IQなのか?』『偏差値なのか?』はわかりませんが、IQはもとより偏差値を上げていたことは確かです。

 友達は独り暮らしを始めてすぐにファミコンがありまして、ベースボールやゼビウスは既にありましたが、『がんばれゴエモン』にハマってました。

がんばれゴエモン! からくり道中 プレイ映像

 これは面白いと思いました。友達はこのシリーズをどんどん買っていったようで。僕もこれは第一印象ばっちりでした。お互い話しのネタになることで、その後の交流が継続しました。

 友達は給料やボーナスで、まず、買っていたのがビデオデッキとCD付ステレオコンポでした。友達の音楽を聴いて見るとBOØWY・吉川晃司がびんびんにかかりました。吉川晃司はついていけた口でしたが、BOØWYはついていけなかった。

 友達が勉強にハマってる間から1986年ののち、僕はGS・グループバンドからは卒業していたんです。軽音楽=バンドを組む機会を幾度か逃していました。コピーバンドすら目の前にチャンスはありつつ、経済的な差でついていけなかった。インディーズもちょっと入り口はあったのですが、ドラムの他に電子系楽器を持ってないと根本的に組めなかったのです。吹奏楽部の経験もありませんでしたから、入り口はあっても入れませんでした。

 あの時代、小椋佳さんが楽器が弾けなくても曲を出していたという伝説がありました。

 

 高校生の時は、その世界に入るには「作詞で行くしかないかな」と思っていました。保存はしてませんでしたが、音楽向きな歌詞は、ちょこちょこ自分では書いてました。小説は不得意なんですが、詩を考えて書くのは好きなんです。音楽業界にはすくなからず志しと憧れはありました。

 1986年以降『いかすバンド天国』といった、創作バンドブームがくるんですが、僕は高校時代に機を失ってまして、わび・さってました。

 1986年・友人。の世界では、マイビデオデッキを先に買った友達の部屋で『北の国から・初恋』や『ロッキー・シリーズ』を観て、感動と興奮を同時に味わってました。

 僕個人としては、バンドは女性グループを探しつつ、ソロ活動を始めた『KUWATA BAND』とか、甲斐バンドから、ソロ活動を始めた『甲斐よしひろ』といった、ソロシンガーに心の置き場を求めてました。

 

甲斐よしひろ 電光石火BABY PV

 『甲斐よしひろ 電光石火BABY』は1987年リリースですが、その間、友達から『ドラゴンクエスト』を紹介されたりして、RPGは僕の偏差値にはちょうどいいぐらいでした。

 給料でファミコンを買って、そのときに石油ストーブも買いました。マイホームを失ってからの最初の冬でした。

 そういえばまだありました。はじめて自分で買ったストーブです。その後はファンヒーターといったふうに時代についていこうとしてて、石油ストーブはおざなりにしてました。でも、これは当時匂いが気になるのを抑えるための脱臭機能もある石油ストーブでした。

 東日本大震災があって、電気がつながるまで避難所にいたんですが、「石油ストーブとかないべかー」と、尋ねられました。理由を聞くと「寝たきりの婆さんがいて、ちょっと心配で‥‥‥」。在宅避難してる中には寝たきりの家族もいました。避難所から自宅に戻った時にそう尋ねられたことがあり、石油は入ってなかったので、オイル電気ヒーターとかで過ごしてましたが、火力の暖とは違いました。「寝たきりのお婆さんが心配で‥‥‥」と、石油ストーブを求めていたとのことで、ここにこれが一個ありましたから貸してあげました。あのときの美談になる話があるとしたら、この石油ストーブを貸してあげれたことぐらいです。

 ファミコンを買ったときのソフトというのは、『がんばれゴエモン』にハマっていた友達がいたので、僕は『スケバン刑事Ⅲ』を新発売で出たので購入しました。

[FC] スケバン刑事Ⅲ

 『スケバン刑事Ⅲ』が初めて手にしたマイファミコンソフトで『じゃりン子チエ』もそのあと買ったりと。コラボレーションしたゲームソフトを好んでました。

 BOØWYの世界にはIQ不足というか、偏差値でついていけなくなりまして、BOØWY(ボウイ)からボーイに付着して、『バービーボーイズ』にハマりました。

 

1986から『BOØWYと私とIQ』でした。

Wellerman Sea Shanty - Bagpipe Remix (The Snake Charmer)

 


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クロッカス

2021-03-25 10:51:34 | 雑記の宿

 東京では桜が満開といったニュースが聞かされるのですが、こちらまだ早春に咲いていたのはクッロカス。

 

  たのしさをみつけるのが難しいなかで‥‥‥

『青春の喜び』という花言葉。たのしくないからあなたをみつけて追いかけた。

木の袂

追い求めてる

クロッカス

三の月から

時は流るる

花の子花の子ルンルン OP ルンルンのセリフ付き

 


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セクハラ自叙伝

2021-02-05 14:50:34 | 雑記の宿

「それ、セクハラって言うんだってよ」

 あなたは『セクハラ』という存在をいつ頃から知りましたか?

 僕が「セクハラ」という言葉を聞いたのは1987年、もしくは1988年、曖昧ではありますが、「それ、セクハラって言うんだってよ」と言われました。

 会社を2社退職して3社目の会社に就職した社内であったことです。これまで僕はそれ以前の会社ではコミュニケーション能力を発揮できないでいました。会社内では雑談が出来ない社員で、只々、黙って聞いてるだけの存在でした。

 高校時代の後遺症もあって、学校内で話せない生徒になっていたので、原因は、友達に友達の愚痴を言ったらチクられまして、その後報告を受けた生徒から顔面を殴られました。「チクったらいいか!」‥‥‥。

 その後、黙っていても顔を見れば鼻血まみれの顔と目が青く膨れたまま、治療も受けずに家に帰宅したので、親に「どうした?」「殴られた」「なんだと!学校に連絡しないと!」と、親が学校にチクリまして、その後、学校の薄暗いトイレで殴った生徒の仲間数人から「なんでチクったんだ!謝れ」。僕は身の危険を感じたので「すまん」と親にそして親がチクったことを謝りました。

 チクったらどうなるかを知り、僕の学校生活は、雑談がほとんど出来ないまま、高校を卒業して就職しました。学校の外では地元の他校へ行った友人とは交流があり、会話もしましたが、僕が話してることはだいたいは調子のいい嘘で、最近あった本当の話しはチクらないでいました。正直、地元の交流は四面楚歌状態で、腹を割って話せる相手がいませんでした。

 他校の友人から別な友人の彼女の電話番号を教えられ、その彼女に電話をしたらその彼女にチクられまして、えらい権幕で彼女の彼氏に怒られました。

「ヘボいくせに」と、罵声で叱られまして、僕の黒歴史に刻まれました。

「やめておこう」とも、その間なかった。他校に行った友達の紹介だったので、口を利いただけだったのですが、「ちょっかい出した」と大怒りでした。10代で未成年だったとしか言い訳にしかできませんが、心の傷はどんどんと深まっていました。

 高校時代、就職試験の面接がありました。「どうしてこんなに欠席日数が多いのですか?」と尋ねられたとき「身体を悪くしまして‥‥‥」と嘘で答えました。ほんとは「暴行に遭いそうだったから欠席が多くなった」と言わずに体調を理由にしたら、就職試験に落ちました。他校に行ったそのときの友人も一緒に試験を受け落ちましたから、僕が落ちた証拠は友人らも知っています。でも、他校の友人にも、面接で嘘をついたことはチクりませんでした。

 嘘をつき通してでも、高校を卒業するまでには会社に就職できたのですが、黙って黙々と仕事をこなすしかできず、会話がほとんどできない、上司から見ればつまんない社員でもありました。とりわけ作業ができるほうでもなかったので、初めの会社は、パワハラが酷くて退職届けを書かずに次の会社に移り(何も相談できなくて)。2社目は仕事が合わなくストレスが多く、最後は無断欠勤を続けて、一身上の都合と退職届けを提出して退社しました。

 会社内で話せないでいたのがストレスで、そして先輩社員からもどんどん下に見られて立場が失ったのと、作業能力の欠如。

 この辺あたりは、パワハラが原因でモラハラで会社をやめることになりました。

 作業能力は次の職場で頑張ればできると思ったこともあり、その他は、話し方を自分の中に取り入れました。前の会社の優秀と思っていた先輩社員の語り口調が上手で、周りからも信頼を得ていました。評価よりも給料が安かったのか、その方も途中退職しましたが、送別会まであって惜しまれるように退職してゆきました。

 僕もその方を見習い、語り口調をお手本に3社目の会社に就職しました。

 現場ではガッツで押し切って、語り口調は前の会社の先輩をお手本に雑談も話せるようにしてましたら、現場からデスクワークの仕事に配属されました。机をひとつ与えられた形になったので、表向きは昇格した形になりました。

 デスクワークをしていると、そのオフィスには各部門のリーダーの机があって、社長の机も置いてありました。

 社長クラスになると、女子社員のお尻をさわることもできました。コピー機に女子社員が立っていると、社長が背後からお尻を撫でるのが社長からの挨拶でした。

 僕から見ると、優秀な女子社員がよくお尻を撫でられてました。「お尻を撫でられる=私は優秀」と、思っていた社員(従業員)さんもいたかもしれません。

 他のリーダーさんたちは、そういったことはしなかったであろうと思っています。僕はわりと仕事の相談もしました。

 会社内では、社長の気分次第で他の部署に飛ばされるってこともちょくちょくあり、飛ばされまいと業績を上げていたリーダー方もいました。

 僕が配属されたのも、長年信頼を得てた課長さんが、単身赴任を命じられ、その抜けた部署に僕が配属されました。

 上役の転勤が決まって、送別会だったのか、飲み会を開いたときは上役さんもかなり酔っていて、給料明細まで見せられました。「俺の給料はこれぐらいだ!ーー」どういう意味があったのか知りませんが、惜しまれつつ、他の部署に行きました。

 僕はというと、デスクワークに配属されて、座った隣の席にデスクワークが板につく、たしか同期だったと思うのですが、年上の女子社員がいました。なんか、魅力的で年齢は10歳ぐらい差があったと思うのですが、仕事が板につく良い方でした。

 出社して、その女子社員も席につくと、犬なのか猫なのか、犬っぽかったかな、頬の辺りを触りたくなって、手で撫でたのが癖になりまして、その女子社員さんも、大らかな方で、可愛がられたのか、なついてくれたのか、頬にスキンシップをしても、僕を寛容に扱ってました。

 昨日、僕の家内にその話しをしたのですが、「キミみたいなひとだったよ」と言いました。

 会話術は学んだのですが、女性の本音まではまだ学んでませんでした。

 その女子社員さんを癒しのペットかぬいぐるみのように思って、頬に毎回スキンシップで撫でていましたら‥‥‥。

「それ、セクハラって言うんだってよ」と、やんわりと言われました。

「セクハラ?」二十歳を過ぎて間もなく経った時でした。それから「セクシャルハラスメント」というのが社会問題化されました。

 僕には理解不能なことでした。でも、イジメやパワハラは、モラハラも経験しました。

 その女子社員さんは、会社に来るのがストレスだったのかもしれません。しかし、会社に来ないと収入になりませんから、僕のセクハラも我慢していたようです。一度、退社したのですが、あてがなくまた職場に戻ってきまして、しばらくしたら妊娠したと聞き、産休に入りました。

 それから報告がありました。出産したが死産だったと。僕はそれを聞いて涙がこぼれそうになりました。結婚してしばらく子供ができないでいて、やっと出来てからの死産だったと聞きました。

 その後、僕は会社に居られなくなって退職しました。(他の上司の配慮で他部署へ移動後、その後説得を受けたが一身上の都合で辞職)その後の人生では、失敗ばかり繰り返してきました。僕の移動を受け入れた元上司とは、ハローワークで偶然隣同士の席で失業者(離職者)説明受けました。1986年から今日に至ることですが、ここで我をふり返り、自分を晒し犠牲にしてることすら辛くも感じます。

 今、僕が抱えている状態は何ハラなんでしょうか。

 「それ、セクハラって言うんだってよ」と、忠告してくれた。その女子社員さんが今の家内に面影がよく似ていて、運命の出会いがあったとしたら「この人なのかも」と、昨日、家内に「こんなことがあったんだ」と話しました。

 家庭内では、家内は僕のスキンシップには応じてくれますが、時々、それで不機嫌になることもあります。

 家庭内でもセクハラがありパワハラがありモラハラも発生してしまいます。日々自問自答している、私の自叙伝でございます。


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