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旧える天まるのブログ
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『まちの腰かけ』土手

2021-02-27 18:46:55 | まちの腰かけ

 とある土手の風景。かつてはこの土手に腰かけモトクロスを観ていたまちの腰かけてた跡地です。

 昭和40年代から50年代。覚えがある中では小学1年生ぐらいから中1ぐらいまですが、自転車に乗って自由に移動し始めたぐらいから、毎年、春になるとオートバイのモトクロス大会が開かれ観に行ってました。バイク音と土煙が沸き立つ中で、オフロードバイクのノービスクラスだったと思うのですが、モトクロスレースを土手に腰かけバイクを追いかけてました。

 春祭りの日に合わせて行っていた行事にモトクロスのノービスクラスレースが行われ、春になると、桜見物の他に互市とモトクロス大会があるのがまちの恒例行事でした。

 僕は小学生ぐらいから中1ぐらいまで。始めは爺さんに連れられて観たことから、小学生の子供どうしで出かけるようになり、小学生気分も抜けきれない中学1年生ぐらいまでは好んで観に行ってました。

 中学2年生ぐらいからは、大人びてちょっと行かなくなったような。

 中にはそこで下級生相手にカツアゲを試みた輩もいて問題になったような‥‥‥。教室で注意事もあったように思います。

 平成になるか、ならないかぐらいにはモトクロス大会は開かれなくなりまして、その会場の痕跡は現在のような水溜まりとなって当時のレース場で兵どもの夢の跡になってます。

 モータースポーツの中でもモトクロスはマイナーですが、その中でもノービスクラスの大会でしたから有名で大きな大会ではありませんでした。それでもオフロードバイクから放つモーター音と迫力は、春の訪れをまちに響かせ躍動してました。

 現在はモータースポーツ会場に代わってパークゴルフ場となり、時々、競技会なども行われたりもしている土手の腰かけです。

84年トランスジャパンモトクロス

 僕はバイクの趣味としてはオフロードタイプのほうが好みでした。高校を卒業してバイク通学を終えて使わなくなったバイクを買い受けたのがホンダMTX50だったように思うのですが

 

ホンダ (HONDA) MTX50

MTX50は、1982年3月に発売されたランドスポーツモデル。1979年に発売されたMT50が前身で、より本格的なオフロードモデルへの発展的...

 

 

 

家に置いてたら盗まれましてダメにしてしまいました。このバイクで通勤中に35キロオーバーで速度違反して免停と未成年だったので家庭裁判所までいきました。

 

ハスラーの歴史

1981年当時のフルサイズ50ccクラスは、とってもハッスルしていました。   スズキ  TS50ハスラー ...

 

 

 通勤で必要な時に母親が知人から譲り受けたのがスズキのハスラー50でした。これもまた盗まれまして、代わりにスクーターが来ました。

 

【蘭、咲きました】キャンディーズのランちゃん登場!ストリートに咲くスクーター美人、スズキ「蘭」のポスター。貴方の胸を躍らせたバイク広告は何ですか? - LAWRENCE - Motorcycle x Cars + α = Your Life.

バイクの広告、見ているだけでワクワクしちゃいますね。前回はスズキ VANVANのド派手ポスターをご紹介しました。今回は、女性向けのおしとやか...

 

 

 

ミニチュア・ピンシャー

 

 

 

 飼いたい動物で好きなのがミニチュア・ピンシャーです。ペットショップでみつけるとついついほしくなります。

 


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『まちの腰かけ』シンボル

2021-02-24 15:20:17 | まちの腰かけ

 とある交差点の歩道に設置してあるシンボル的なまちの腰かけ。

 交通量の多い場所なのですが、非常に目につきやすい場所なのですが、さりげないやさしさもある腰かけです。

 腰かけはさておいて、ここは人目につきやすく、ここに立ちいろいろなメッセージを示したりする姿も見うけることがあります。

 地元の人には関心がないようなお飾りみたいな腰かけですが、実際、この辺まで歩くと疲れも感じまして、お年寄りや身体が弱い方はついつい腰かけたくもなるような場所でもあります。

 初めて訪れた方々にも、ここに腰かけがあるとちょっとほっとした気持ちにもなります。

 このまちにいると方角が大雑把になりやすく、北と南も大雑把に思い込んでしまい思い違いもたびたびあります。

 ここに腰かけたとき、方角を示した絵が描かれてまして、「正確には北はあっちだったんだと」と関心しました。

 昔はここに大橋があり、かつてはまちにひとつしかなかった橋でした。別な場所に新たに大橋が建設されまして、古い橋は取り壊しました。一時期、新たな橋が第一大橋だと思い込んだことがありました。

 古い大橋はリニューアルしまして、物の順番から言えば二番目に造られた橋が第一大橋に代わると思ったのですが、三番目に造られた大橋が第一大橋として現在に伝わってます。

 順番からすれば二番目に造られた大橋のほうが先輩なのですが、このまちでは初めに造られた大橋がある場所を第一大橋と呼ぶことになりました。

 心情的には不便だったことで造られた第二大橋ですが、そちらを第一大橋としては扱わず、まちの中心部でもあるがため、ここから通る橋をまちの第一大橋として現在に引き継いでいます。

 年を重ねればいろいろな景色が移り変わり、感情の揺れも起きたりもしますが、情に流されず頑固な一面もある、まちの腰かけです。


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天皇誕生日・ノックノック

2021-02-23 17:55:22 | ノックノック(雑記の宿)

 2月22日は元号も令和になり天皇誕生日の祝日もこの日なりました。今の天皇陛下さまとはお目にかかったことがまだございませんが、上皇さまとは平成元年11月に催し事にお見えになりまして、ご観覧とお言葉を述べられまして、初めてそのお姿を拝見したことがございます。

 うちの祖父母の家には天皇ご一家のお写真が飾られてまして、僕が5歳ぐらいからの覚えなのですが、写真から今の天皇陛下の少年時代のお姿も見えまして、そのときの紀宮さまも大変可愛らしく見えていたことに親近感を抱いて見てました。

 紀宮さまはご公務以外で伊豆沼に来られることがありまして、サンクチャリセンターに立ち寄ったときには「昨日、来られまして」と館長が言っていたときに何気なく座った席に僕が座ってしまい、館長の顔色が変わり「あ、そこは昨日‥‥‥」と、せっかくの場を汚してしまい恐縮しましたが、「特別にご用意した席ではございませんので」と、「どうぞお気になさらずに」と言われまして記念になった思い出もございます。プライベートのことでしたから、家庭内だけでこのお話しは今日まで公には語りませんでした。

 今の天皇陛下が皇太子さまだった時代に、僕も20代前半で、友達に繁華街に誘われました。あまり友達に誘われてお酒を飲むことは滅多になく、友達は行きつけの飲み屋さんで楽しくしてました。僕は年を重ねるごとに垢抜けることがなく、その場の雰囲気では地味な感じでした。カラオケも最新の曲とか歌えなくて、友達はBOOWYとか吉川晃司とかを歌いお店には常連として馴染んでいました。

 その時、新人で入りたての従業員さんもいまして、まだ慣れてないようで僕と一緒にカウンターの隅で派手に盛り上がってる友達たちを関心してみてました。その時にあだ名をつけられたのが皇太子さん。派手な髪型もしてなくて仕事もいい仕事にもありつけなくて、どんどんと下にさがっていく中でしたから、よく見られて皇太子さんと言われました。他は氷室さんとか時代の上を行く名前で呼ばれてました。

 誘われた飲み会は終えて、次は僕以外でその行きつけの飲み屋さんに行ったときには「皇太子さんは来ないの?」と、人気のない新人の従業員さんに言われたみたいで「なんか気にしてたみたいたぞ」とあとから言われました。

 僕にとっては非常にありがたいお言葉でした。

 それからは、友人関係とは孤立無援の日々が続きまして、地を這うぐらい下の世界を生きています。親不孝も一因なのですが、親戚にはいいところなしで、いなくてもいい存在だと思うようにもなりました。姉弟からも見放され、先日、横浜市役所に働く義理の兄を宛てに姉にむけて連絡をしたのですが、返事を期待しましたが、今だ相手にははされず、しょんぼりとしています。陛下とご学友といったご関係もお持ちだと伺ってるんですが、僕には冷たいんですよね。わかっているんです。甘えているんだろうと。母にも酷いことをしました。ほんとは死んでほしいのか、死んでしまったほうがいいのか。いないほうがいいんじゃないかと、毎日、外国人のように敵視されコロナウイルスと呼ばれ続け、沈んだ日々も過ごしてます。

 親戚や周辺に認めてもらえる機会があるとしたら、歌会始に応募して、皇居にご招待してもらうことが僕にあるひとつの夢です。なかなか いい歌が作れませんが、いい歌を作って応募してみたいです。


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千載一遇・ノックノック

2021-02-20 15:31:39 | ノックノック(雑記の宿)

 人生20年。その過程の中で千載一遇のチャンスというものは何度かありまして。1度は中2の時で、陸上大会で3位入賞からの県大会出場権を得たことがありました。この年は彼氏としての申し込みもあったりしました。個人で上のレベルの大会に出るというのは10代としては初のことでした。

 ただその時、陸上部ではなくて他の部に所属してまして、陸上部の部員不足もありますが他の部活動で予選敗退した生徒とか、文化部に所属している生徒も、少しでも個人の機会を設けのるが学校側の方針と、学校対抗による総合優勝もかけての陸上大会の予選でした。

 僕は本職の部活動が団体部門で予選を勝ち抜き県大会の出場が決まり、そちらを優先ということで、陸上部で4位だった同級生に県大会を譲りました。人生経験の中で千載一遇のチャンスは巡ってきましたが逃しました。

 本職の団体での県大会は負けたのですが、2年生ながら団体戦に出場する予定でした。監督は大会当日まで悩んだあげく、最終学年の3年生を優先にと決めたみたいで当日僕の名前が登録されていたのですが、急遽3年生の部員に変更されました。大会に勝つことよりも責任ある上級生にすべてを委ねたのが最終的な判断だと感じました。監督は教師でしたので学校の研修があり、その時の3年生はあまり監督の指導につき合えることもできなかったという悲運もありました。

 その悲運が高校まで引きずって、暴力事件を起こした生徒の先輩が僕の先輩を県大会で破ったという経緯が因縁として暴力事件にまで発展しました。

 陸上大会の出場権は逃したものの、3年生になり全国大会出場という二度目の千載一遇のチャンスが巡ってきましたが、決勝戦であえなく逃してしまいました。けれど、卒業後、三度目のチャンスでその部活動を通して全国大会まで行けたので僕は幸せ者のひとりでもあります。

 解せないのは暴力事件の汚点を残してしまったことです。

 高校生活はそれがあり就職も進学も思うようにいきませんでした。

 就職先はいろいろと考えました。子供の頃からの影響だと駅務員の仕事に就きたかったというのがありました。鉄道、電車好きではないですが、駅の近くに住んでいたということもあって、駅務員さんの仕事ぶりをちょくちょく見ていました。切符を切ったり乗客を見てるのはあたり前ですが、タバコの吸い殻を掃除してたり、そういう姿をちょくちょく見ていまして。「大人の仕事というのはこういったことをするんだ」と、「駅務員さんは偉いなー」と思って育ってきました。

 仕事は国鉄で働いてみたいとか、鉄道関係、駅関係の仕事に就ければと思ってもいました。

 高校在学中はまだ国鉄が運行されてましたけど、JRに変更された年とも重なりました。国鉄職員の人員整理のニュースも盛んに報道されてて、僕が在学中には国鉄(今のJR)入社はちょっと無理だと思いました。

 1986年に高校を卒業して鉄道以外の仕事に就いたのですが、仙台市地下鉄の開業とその職員の募集が僕に飛び込んできました。開業前の募集で30名の求人でした。新卒世代はすでに就職が決まり。そのあとのことで僕にとっては千載一遇でした。

 僕の幼い時からの友達に高卒で郵便局に就職した友達がいまして、19歳の年でしたけど、一人暮らしを始めて、僕はその友達のアパートに1か月に1回か2回は土曜日から親の車を借りながら泊りに行ってました。

 そのときに公務員試験の求人が舞い込んで来て、一足先に公務員になったその友達から公務員試験のノウハウを教わりました。一般常識が試験問題にあるということで、テキスト本を買って友達のアパートで教わりました。試験日は日曜日にあり会社も休みだったので試験前日からその友達のアパートに泊まりました。まずは試験会場はどこにあるか、を同行してもらい視察しました。

 試験当日、季節は夏でした。筆記試験と運動能力試験がある中でも、身なりは大事なんじゃないかと語り合い白の半袖シャツにスラックスズボンにネクタイを締めて、試験会場に行きました。ほとんどがTシャツ半ズボン姿の受験生がゴロゴロと集まってました。僕みたいにネクタイを締めて試験会場に来ていた人もちらほらいましたが、筆記試験メインの一次試験でしたので、こ慣れてる方はラフな姿で試験会場に来ているようでした。一般常識からしてみれば僕はそのときちょっと浮いてた感じでした。そして30人の定員に400人が一次試験を受けました。

 筆記試験の問題は至って簡単でした。友達に教わった成果も少しはありましたが、予想以上に簡単な問題でした。それでもわからなかった個所もありましたので良くて80点か90点ぐらいだとは思いました。 

 続いて体力試験。体育館で行われ、ストップウォッチで測る運動試験や肺活量の測定。この辺は他よりも上手くいったように思いました。とくに肺活量が人並以上だったようで、まわりからどよめきが聴こえました。試験官の人にもひとこと声をかけられたので「ここはいけた」と思いました。

 試験が終わって「一次試験の通過者は何時何時の日に市役所に張り出しておきますので、そこで確認してから次の手続きを行ってください」といったアナウンスがありました。そのことを先に公務員になった友達にも話したら「通過してれば封書が届くんじゃないか」とも言われました。

 どっちを信じていいのかわかりませんでしたが、1次通過発表は平日の日でした。僕はそれまで会社を平日に休んだことはありませんでした。会社に内緒で公務員試験を受けたこともあり、ちょっと負い目も感じていて、合格発表に行く口実が作れませんでした。自らで合否の確認もしないまま、時は過ぎてしまいました。

 友達には「どうだった?」と訊かれましたが「合否を見には行けなかった」としか言えませんでした。「通過してれば封書は届くはずだよ?届いてないのか?」「けど、張り紙を確認してからって言われたし‣・・・・」友達は「落ちたんじゃないか」といった空気が漂いました。

 冷静に考えれば筆記試験は百点満点じゃないと合格しない試験だと思いました。列車の仕事は乗客の命を預かる仕事で単純なミスでも事故に及ぶこともあります。筆記試験はわからない箇所もあったし、その時点で落ちていたでしょうし、合否の確認も怠ったミスも起こしました。

 一般常識にも乏しく、自己採点でも不合格だと思います。千載一遇の機会ではありましたが、自らのミスで逃してしまいました。

 その友達とはその年の正月「初日の出を見にいこう」ということも行いました。安く買った中古車で大晦日に海岸沿いまで出かけました。僕がそのとき用意したカセットテープは岡田有希子が亡くなった年の最後に発売されたアルバムをカセットにダビングして聴かせたら「元旦早々、岡田有希子はやめてくれよ」と言われました。追悼の意味は僕にはあったのですが友達からしてみれば非常識なことでもありました。「そういうのは家でひとりで聴いてろよ」と、そのときには感じました。

 その年の初日の出は、車の中で寝てしまい起きたら日が昇ってて拝むことすら逃しました。

 今さらですが、中2の彼氏の申し込みも最初だけで最後は未確認でした。

 常識が足りなかった千載一遇。

 曲は1986年1月21日リリース。この曲がなんか好きでいました。運転免許試験センターが新しくできた年でもあり、そこで自動車免許を取得しました。何かとリニューアルしたことに携わった1年でした。なのに原付バイクで法定速度30キロを35キロオーバーで走って初免停になった非常識。思い出のetc

 うしろゆびさされ組 

 バナナの涙 ノックノック

 

 


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『テレワーク・目標管理と部下指導』心中

2021-02-18 10:56:56 | DQXテレワーク・目標管理と部下指導

「なんかテレワーク強制してるみたいだね」

「言い訳は通じないとかなんとか」

「何年も前から在宅ワークもちかけられ、高い機材の購入をもとめられたとかのトラブルも聞いたことあるけど‥‥‥。コロナ過でOSメーカーは儲けてるとかも聞いてるし」

「そういったところの株を買ってテレワークで儲けてる輩もいるんだよな」

「わたしたちを都合のいいように使ってるよね。競馬場の馬なら走れば収入にはなるけど、わたしたち予想屋に予想されてるだけじゃん」

「おもしろおかしく煽られ揺さぶられ、とってつけたようにテレワークへの誘導と強制。そしておいらたちには貧乏人の言い訳けだ!ぐらいにしか思ってないんだよ」

「ドラマ化を考えてるのもつらいわ」

「ドラマの神様ふざけんなっつーの!」

「心中しようか」


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