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『毛皮を着たヴィーナス』置手紙

2020-01-09 01:28:42 | DQX毛皮を着たヴィーナス

初回

DQX毛皮を着たヴィーナス

前回

『毛皮を着たヴィーナス』餅

<置手紙>

 わたしは自分の部屋にもどると、二、三の持ち物をひとまとめにして荷造りし、彼女にあてて、つぎのような手紙を書いた。

 親愛なる淑女よ

 わたしはこれまで気が狂うほどあなたを愛し、これまでに例がないほど献身的にあなたにつくしてきました。

それなのに、あなたはわたしの神聖な熱情を無意味にし、

わたしを相手に、恥知らずで不謹慎な遊戯をやってきました。

 あなたが残忍で無慈悲だけであったならば、わたしにはまだまだあなたを愛しつづけることができたはずでです。

 しかし今では、あなたが蹴ったり、モチをついたりできる奴隷ではありません。あなた自身がわたしを自由の身にしてくれました。

 わたしは、ただ嫌悪し、軽蔑している婦人にすぎないあなたから、永遠に別れ去ります。

 ゼフェリン・クジムスキー

 わたしはこの手紙を黒人女に託してその場を去り、息をきらして停車場へ急いだ。

 しかしわたしは心の苦痛で足をとめないではいられなかった。わたしの足は急に鉛の塊よりも重たくなってしまった。

____逃げようと願っても、できない。恥ずかしい。引き返す?どこへ?嫌悪しながらも崇拝している彼女のもとへ?

____いや、どうしたらフィレンツェからのがれることができるだろうか?懐中には一銭のお金もない。かまわない。

歩いていこう。娼婦のような女に養ってもらうよりは、正直な乞食になる方がましではないか。

____いや、彼女は、わたしが名誉にかけた誓約の言葉を握っている。それなら、彼女のもとへもどらねばならない・・・・

 わたしはカシヌの町を通り抜けて、アルノ河のほとりに出た。わたしは、二本の柳の根もとで黄色い河波が単調なしぶきをあげているあたりに腰をおろして、最後の思い出の総決算にとりかかった。

 わたしは、恐ろしい病気にかかってやせ衰えて死んでいった母のことを思った。青春の花の蕾のうちに死んだ、弟を思った。幼な友だち、学友たちのこと、かつて賞玩した雉子鳩(きじばと)のことを思った。

 わたしは狂気したように高笑いして、水のなかへ身をすべらしたが、そのまま黄色い河水のなかに没し去ることはできなかった。水面に垂れ下がっている柳の枝をつかんで、岸辺にあがってしまった・・・・

 わたしは、屈辱の思いと発熱で顔をまっ赤にして、とぼとぼ彼女の別荘へ戻ってきた。

____自殺のできない弱虫のわたし。こうなったら彼女に殺してもらうより仕方がない。

 わたしはそう思って柱廊のそばまでくると、彼女が欄干のうえによりかかって、緑の目でわたしのほうをじっと見ていた。

「まだ生きていたの?」

 彼女は冷然と言った。

「・・・・・」

 わたしは黙って頭を下げた。

「短刀を返してちょうだい。自分で自分の命を絶つ勇気もないようなあなたは、用はない品物ですから」

「なくしてしまいました」

 わたしは悪寒にうちふるえた。

「アルノ河でね、フフフ」

 彼女は冷笑して、肩をすくめて、

「どうして、そのままどこかへ行ってしまわなかったの? ああ、お金がなかったんだわね。これを持っておいで」

 といって、言葉に絶する侮辱の身ぶりをして、わたしの目の前へ財布をほうり投げた。わたしはひろいあげなかった。

「行く気がないのね___?」

「わたしには行けません」

 わたしは、しばらく圏内でぶらぶら暮らしていた。ある日、二羽の雀が種子を争って喧嘩しているのを見ていると、きぬずれの音が聞こえてきた。ふり返ってみると、ヴァンダが地味な黒い絹のガウンを着て近づいてきた。例のギリシャ人の青年もいっしょであった。

 ふたりはなにか、しきりと言い争っていた。彼は憤慨して砂利を蹴って、乗馬用のムチをびゅーんとうち振った。彼女はびっくりした。

 やがて彼は、さっさと立ち去った。彼女がいくら懇願をこめて引きとめようとしても、無駄だった。

次回

『毛皮を着たヴィーナス』わな

 


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新年ノックノック

2020-01-06 04:20:53 | ノックノック(雑記の宿)

<新年ノックノック>

 2020年。昨年は云々と、文字にしたのは6回目になりますが、年賀ハガキはといいますと、私に届いたのは

 お世話になっている車屋さんからの年賀ハガキが一枚。年賀状は束になって届くこともあるので輪ゴムに巻かれてたなかで、私宛のはこの一枚のみでした。毎年恒例ですが家族は失笑してました。今年は5枚ほど書いてはいるんですが・・・

 年賀状をあまり書かなくなった理由のひとつに、地元の同窓会の幹事会の集まりのときに、少年野球の監督までするような同級生から、私が結婚したことを報告した年賀状が「不幸の手紙」だと皮肉られたことが胸に刺さって、それからあまり年賀ハガキは書かなくなりました。彼は宮藤官九郎さんと同じ高校の野球部の出身で、地元では学力優秀記憶力抜群で、県予選では1年の時はベスト8、2年の時はベスト4,3年の時は初戦敗退といった輝かしい成績を残し、少年野球の監督まで任されるほどの人望ですので、私の出した年賀状を「不幸の手紙」と言ったことはあらかた間違いではないと、思ったほどです。

 それが胸に刺さり、こちらから書くことは控えるようになりました。

 グサリとくるような言いまわしは、私も言った自覚はありますので、お互い様ということで、本年もどうぞよろしくお願いします。

『まだ見ぬノミネート賞』の中身はといいますと、

 中身はこんな感じで、『レンタル禁止』これがこの作品の肝になる部分ですね。

 注意書きもありました。

 1981年の作品で、1981年と言いますと、千代の富士が関脇から幕内優勝と大関に昇進した年で、優勝決定戦での千代の富士対北の湖戦は、なんと視聴率65.3%だったそうで、私もその当時はリアルタイムでその取り組みを観てました。

 1981年~は、日本のアイドル全盛の時代と重なって、邦画では『薬師丸ひろ子・セーラー服と機関銃』『近藤真彦・ハイティーン・ブギ』が大注目されていた時代だったので、洋画『エンドレス・ラブ』は、若者の頃は眼中になかったでした。

すみれseptember love 一風堂 ブルックシールズは、カネボウの化粧品CMから日本では人気になり、初めはアイシャドウが話題になりましたが、ブルックシールズ本来の眉毛が、日本で大流行しました。

 眉毛を日本に輸入したのは、ブルックシールズだと言っても過言ではないくらいに、ブルックシールズ系の眉毛が日本では大流行し、バブルフェイスの象徴だったように思えます。

 1981年にいったんもどりますが、私はその頃、交換日記を始めた年でした。初めての男女交際が交換日記で、交互に日記を書きあってるうちに、その彼女と抱きしめ合うことだけが頭に浮かんで、直筆で書く内容が進まなくなって、しまいにはティッシュに書いて夜が明けたことがありました。その時点でしりごみしてしまい。先延ばししてるうちに交換日記は自然消滅してしまいました。

 人によりけりかとは思いますが、私の男女交際は、結構先のことまで考えこんでしまうほうなんです。「このまま進んじゃうとどうなっちゃうのか?」とか、そう思うと怖くなったり、今現在の立場とかも考えこんで、学生であれば学益(域)、社会人であれば職益(域)とかを考えこんで、結果、それにそぐわないことは、その場でスルーしたりもしました。あのまま交換日記を愛しく続けていたら、別れの言葉も書くまでに至っていたことでしょう。やめる、訳を話す、説明する。その結論も、男女交際には有益な時系列なのかもしれません。だだ、私にはその頃のモヤモヤが今でも残っているのは、ある意味違ったかたちの”エンドレス・ラブ”が現在とリンクしました。

 

 映画『エンドレス・ラブ』の挿入歌は、今でも色あせない曲がいくつかありました。

ラヴィン・ユー・ベイビー キッス

ハート・オブ・グラス ブロンディ

キッスは、昨年の紅白にも出場し、ハードロック界の伝説的なバンドです。

ブロンディは、時系列で言えば1983年、春に「これからは洋楽も聴かなくちゃ」と思いつつ、初めて買った洋楽アルバムがブロンディでした。

あれから時が過ぎて、クリスマスイヤーにこれらの曲と再会しあえて感動を覚えました。

 

 初売りではソーラーライトを買いました。地球温暖化対策に少しは貢献しようかと、できそうなところからやっています。元日早々に空爆といったような発想は、私にはございません。

 


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