シスターであり聖心女子大学の鈴木秀子教授の、
「生かされる理由 - 人はなぜ生まれ、どこへいくのか」を読み、
「大学教官の先生が、なぜこのような書籍を書くのか」
福島大学 飯田史彦教授がおっしゃられるように
「立場のある人」がなぜ、このような執筆を行うのか、改めてよく分かりました。
鈴木先生もまた、臨死体験をされたお一人です。
鈴木先生は、友人のいる奈良の修道院に宿泊させてもらったとき、高くて
急な階段の2階から転げ落ち、一階の床に叩きつけられてしまいます。
気を失っているはずの先生ですが、ふと気づくと、体が宙に浮かんでおり、
空中に浮いている先生を、高いところからもう一人の私(先生)が見つめて
いるという体験をされています。
もちろん、肉体である本来の体は、床に横たわっていたそうです。
鈴木先生の場合、3人の自分が存在したというわけです。
まっすぐに立って宙に浮いている先生の足元をたくさんのたけのこの皮の
ようなものが覆っていて(のちに蓮の花びらだったようです)、足元から一枚
一枚散っていったそうです。
ようは
---------------------------------------------------------
空中
●←先生の意識はここにある
○←もう一人の宙に浮いた私(先生)がいて、
足元から散っていっている
床
○←本来の身体 床に倒れている
---------------------------------------------------------
そして、そのあとに鈴木先生が体験したこととは、
□花びらが最後の一枚になると、見ている自分と見られている自分が1つになり、
一瞬のうちに高さの極みに飛翔し、今まで見たことの無いような美しい光に
包まれていた。
□その光は、人格をもつ命であり、すべての存在と深い部分で繋がり、交流して
いることを実感した。
□身体の全機能が最高の状態に保たれ、調和し、研ぎ澄まされている。
今までとは違う完璧な新しい身体になっていた。
□1点の曇りも無く、冴えわたった意識。その中で先生は、
「この命そのものの光の主に、私はすべてを知り尽くされ、理解され、受け
入れられ、許され、完全に愛しぬかれている」
もし、愛の究極の状態というものがあるのなら、こういう意識に貫かれている
ことではないかと思ったそうです。
□真に満たされた状態。
しかもこの光の世界には、時がない。
□光の主が「現世に帰りなさい」と伝えてきた。
□現世に戻ったとき、一番大切なのは、知ることと愛すること。その2つだけ
が大切なのだと、光の主が先生にそう伝えてきた。
□帰りたくないと思っている次の瞬間、意識が一時戻る。
このような体験の内容でした。
そして、イギリス人のシスターが「LIFE AFTER LIFE」
日本語訳「かいま見た死後の世界」 レイモンド・A・ムーディ・Jr博士の
著書のことを教えてくれたので、鈴木先生はその著書を読んでみると、光との
出会いとそのなんとも言えないまばゆさを書いてあるところを読まれ、鈴木先生
は「わたしが見た光そのもの」でしたといわれています。
「では、あれが臨死体験だったのか」とも。
学者である先生方が、今の地位や立場をかえりみず、私たちに「死後の世界」の
存在を伝えようとするのは、まさしくまばゆい光との出会いより、
死が人生の終焉ではなく、死後も続く命であり、この物質世界で我々はいわゆる
「修行の場」として一時期に存在し、精神(魂)を鍛えに来ているということを
知ったその事実を純粋に伝えてくれようとしている、また伝えるべき使命を感じ
そうされているのだと感じました。
そして学者であれ、霊能者であれ、スピリチュアルカウンセラーであれ、
あの世を知った皆さんが我々に伝えたい真実とは、
「肉体の『死』は全ての終わりではない。魂は永遠に生き続ける。」
「今の肉体のある物質世界での自分には、寿命という宿命づけられた限りが
ある。」
「この物質世界での苦悩は、すべて自分自身で課した課題である。」
「あの世には、愛・感動・経験しか持っていけない。」
「求められているのは、『いかに愛したか』である。」
↓
「死(肉体という限りある『死』の意味です。魂は死後も生き続ける)を見つめ、
いまの限りあるこの世の生をどのように生きるのか」
↓
「その『どのように』とは、まさしくどれだけ愛に満ちた人生(経験)を送る
のか」
ただその一点のみであることがよく分かりました。
地位・名誉・お金や土地といった有形資産。
すべては、あの世には持っていけないもの。
そのなかで、「では、なぜ生きているのか」「何のために生まれてくるのか」
「ただ生まれてきて、いつかは灰となってなくなるだけの一生なのか」
「ただ生きるために働くのみの生涯で、一時の休日だけが許された時間なのか」
「愛した人とは遅かれ早かれ、死別はやってくる。苦難と悲しみだけの人生なのか」
「生きながらえても、いつかは身体も動かなくなり不自由になる。」
など、「悩む」試練が色々な場面でありますが、
全ては限りある中での話であり、限りなき精神世界の存在こそが、私達の郷里で
あると考えることができるようになれば、心の中の重荷も随分と軽くなることでしょう。
この苦難はいつまでも続くわけではない。それならば出来るだけ精神を鍛えた上で
元来た場所へ帰るその時まで、多くの経験を積んで持っていこうという前向きな
気持ちになれるような気がしてきました。
「かいま見た死後の世界」の著者レイモンド・A・ムーディ・Jr博士も、
エリザベス・キューブラ・ロス博士と同様、よく登場する人物ですので、
機会がありましたら、読んでみたいと思います。
「生かされる理由 - 人はなぜ生まれ、どこへいくのか」を読み、
「大学教官の先生が、なぜこのような書籍を書くのか」
福島大学 飯田史彦教授がおっしゃられるように
「立場のある人」がなぜ、このような執筆を行うのか、改めてよく分かりました。
鈴木先生もまた、臨死体験をされたお一人です。
鈴木先生は、友人のいる奈良の修道院に宿泊させてもらったとき、高くて
急な階段の2階から転げ落ち、一階の床に叩きつけられてしまいます。
気を失っているはずの先生ですが、ふと気づくと、体が宙に浮かんでおり、
空中に浮いている先生を、高いところからもう一人の私(先生)が見つめて
いるという体験をされています。
もちろん、肉体である本来の体は、床に横たわっていたそうです。
鈴木先生の場合、3人の自分が存在したというわけです。
まっすぐに立って宙に浮いている先生の足元をたくさんのたけのこの皮の
ようなものが覆っていて(のちに蓮の花びらだったようです)、足元から一枚
一枚散っていったそうです。
ようは
---------------------------------------------------------
空中
●←先生の意識はここにある
○←もう一人の宙に浮いた私(先生)がいて、
足元から散っていっている
床
○←本来の身体 床に倒れている
---------------------------------------------------------
そして、そのあとに鈴木先生が体験したこととは、
□花びらが最後の一枚になると、見ている自分と見られている自分が1つになり、
一瞬のうちに高さの極みに飛翔し、今まで見たことの無いような美しい光に
包まれていた。
□その光は、人格をもつ命であり、すべての存在と深い部分で繋がり、交流して
いることを実感した。
□身体の全機能が最高の状態に保たれ、調和し、研ぎ澄まされている。
今までとは違う完璧な新しい身体になっていた。
□1点の曇りも無く、冴えわたった意識。その中で先生は、
「この命そのものの光の主に、私はすべてを知り尽くされ、理解され、受け
入れられ、許され、完全に愛しぬかれている」
もし、愛の究極の状態というものがあるのなら、こういう意識に貫かれている
ことではないかと思ったそうです。
□真に満たされた状態。
しかもこの光の世界には、時がない。
□光の主が「現世に帰りなさい」と伝えてきた。
□現世に戻ったとき、一番大切なのは、知ることと愛すること。その2つだけ
が大切なのだと、光の主が先生にそう伝えてきた。
□帰りたくないと思っている次の瞬間、意識が一時戻る。
このような体験の内容でした。
そして、イギリス人のシスターが「LIFE AFTER LIFE」
日本語訳「かいま見た死後の世界」 レイモンド・A・ムーディ・Jr博士の
著書のことを教えてくれたので、鈴木先生はその著書を読んでみると、光との
出会いとそのなんとも言えないまばゆさを書いてあるところを読まれ、鈴木先生
は「わたしが見た光そのもの」でしたといわれています。
「では、あれが臨死体験だったのか」とも。
学者である先生方が、今の地位や立場をかえりみず、私たちに「死後の世界」の
存在を伝えようとするのは、まさしくまばゆい光との出会いより、
死が人生の終焉ではなく、死後も続く命であり、この物質世界で我々はいわゆる
「修行の場」として一時期に存在し、精神(魂)を鍛えに来ているということを
知ったその事実を純粋に伝えてくれようとしている、また伝えるべき使命を感じ
そうされているのだと感じました。
そして学者であれ、霊能者であれ、スピリチュアルカウンセラーであれ、
あの世を知った皆さんが我々に伝えたい真実とは、
「肉体の『死』は全ての終わりではない。魂は永遠に生き続ける。」
「今の肉体のある物質世界での自分には、寿命という宿命づけられた限りが
ある。」
「この物質世界での苦悩は、すべて自分自身で課した課題である。」
「あの世には、愛・感動・経験しか持っていけない。」
「求められているのは、『いかに愛したか』である。」
↓
「死(肉体という限りある『死』の意味です。魂は死後も生き続ける)を見つめ、
いまの限りあるこの世の生をどのように生きるのか」
↓
「その『どのように』とは、まさしくどれだけ愛に満ちた人生(経験)を送る
のか」
ただその一点のみであることがよく分かりました。
地位・名誉・お金や土地といった有形資産。
すべては、あの世には持っていけないもの。
そのなかで、「では、なぜ生きているのか」「何のために生まれてくるのか」
「ただ生まれてきて、いつかは灰となってなくなるだけの一生なのか」
「ただ生きるために働くのみの生涯で、一時の休日だけが許された時間なのか」
「愛した人とは遅かれ早かれ、死別はやってくる。苦難と悲しみだけの人生なのか」
「生きながらえても、いつかは身体も動かなくなり不自由になる。」
など、「悩む」試練が色々な場面でありますが、
全ては限りある中での話であり、限りなき精神世界の存在こそが、私達の郷里で
あると考えることができるようになれば、心の中の重荷も随分と軽くなることでしょう。
この苦難はいつまでも続くわけではない。それならば出来るだけ精神を鍛えた上で
元来た場所へ帰るその時まで、多くの経験を積んで持っていこうという前向きな
気持ちになれるような気がしてきました。
「かいま見た死後の世界」の著者レイモンド・A・ムーディ・Jr博士も、
エリザベス・キューブラ・ロス博士と同様、よく登場する人物ですので、
機会がありましたら、読んでみたいと思います。
日本では、まだまだ精神世界について宗教学や心理学、臨床医学の分野から離れてしまうと、オカルト扱いされてしまうのが現状です。とても残念ですね。
しかし、神学・宗教学・臨床医学専攻など特定の学問
領域専門の大学院以外では、唯一京都大学大学院人間
・環境学研究科のカール・ベッカー教授のもとで、さ
まざまな学問領域を総合したなかで死後の生命などを
学ぶことが出来ます。
少しずつではありますが、死後生の科学的研究が日本
でもようやく学問として行われつつあります。