みたり*よんだり*きいたり*ぼぉっとしたり

映画のこと、本のこと、おもったこと。

映画『カポーティ』

2007-05-07 22:53:37 | よむ
正規分布をなしてきれいな山形を描く知能指数曲線は左右両方に裾野が広がる。その両裾野をある分野ではアブノーマルと位置づけることがあるという。
『カポーティ』を観ながら、この曲線が浮かんでいた。
社交界でのカポーティの言動はうんざりするくらい見事に世俗に調和している。人々の好奇心を惹きつけ満たす過剰なおしゃべり。反面、個的な関係においてのカポーティは奇妙な印象を受ける声音で、変化の乏しい表情で、初対面の相手にもするりと自ら衣服を脱ぐように自分を語る、少ない言葉で。それは一見、清らかな無知と見紛うほどの無垢を感じさせる。カポーティの相反するように見える二つの顔は、他者の気持ちを掴み取る飛び抜けた才能において共通している。他人が無意識に求めているものを鋭敏に感知し、それを的確に差し出せる才能。そのような才能が、恐怖しかないような場所に投げ出されたあまりに孤独な魂と出会ってしまったら?

おみくじ

2007-03-13 00:16:14 | よむ
80年代はどろんどろんの子育てまみれの日々の中、細切れというよりもみじん切りのような時間に呼応して、わたしの読むものも長編小説から短編小説になり、それが詩へ、短歌へのように少数精鋭活字に移行していきました。87年、時実新子さんの『有夫恋』は日本の文芸の中でも最も少数精鋭文字の川柳をわたしに出会わせてくれた一冊でした。

なつかしい、という思いで拝見するお名前が訃報だということが、これからは増えてくるのかもしれません。

新子川柳おみくじ(HP・時実新子川柳大学)をクリックしてみると・・・

・・・何だ何だと大きな月が昇りくる(新子)・・・

わたしの一番好きだった句。
なつかしいお名前、とか言いながら
お月さん見るたびに、もう20年ほども、いつもこの句を口づさんでは、
ひとりでにやっ、としちゃう。

ぼろぼろでもどろどろでもぐちゃぐちゃでもどんなにどんな時でも、

なんだ、なんだ、ってばかでっかいお月さんがまるですぐそこにあるように空に見えたら・・・・・

このどこか太い感じ、ふっ、とおかしいでしょ。


「習慣は天から贈り物、幸福にとって代わるもの」

2007-02-27 02:06:09 | よむ
この人に出会うためにわたしは生まれてきた、と身の内から湧き出るような確信は根拠を持たないだけに激しく、苦悩さえも幸福感に染めて人の全存在を揺るがす。

色づいた落ち葉が敷き詰まる美しい庭に響く娘たちの歌声に、自分の娘時代の思い出を呼び覚まされた女主人が乳母とジャム作りをしながらたわいもない思い出話しをしている。「奥様も昔は若かった・・・」という歌で開幕するMETライブビューイング『エウゲニ・オネーギン』をテアトル銀座上映で観てきた。
娘時代は小説の世界に夢中になり、思慕を寄せていた男性ではない親の決めた許婚と結婚したこの女主人。当初は泣き暮らしていたものの今では「習慣は天から贈り物、幸福にとって代わるもの」と日常生活の中で培われた素朴で揺るぎない哲学が彼女の中に生きている。この冒頭の場面は、『エウゲニ・オネーギン』の味わいどころである激情から日常への流れを良く暗示していた。

やがて場面は、女主人の二人の娘とそれを取り巻く二人の男性という若者4人に軸が移されてゆく。時間制約の中での物語展開の要求もあろうが、恋慕の情に対しても、自分の誇りに対しても、死に対してもあまりに直情的な心理展開は、観客の情感に揺さぶりをかけるよりもむしろ観る側は冷静さを引き出されてしまう。それでも、この物語が悲劇的な喜劇に陥らないのは、やはり音楽の力に拠るものだ。

あの二人って

2007-01-26 00:27:22 | よむ
不思議、と昨年末から気になっていたダリとガラ。

『わが秘められた生涯』(新潮社)
『ダリ 異質の愛』(西村書店)
『ガラ・炎のエロス』(筑摩書房)
『ダリ』(文芸春秋)

さくっさくっと拾い読みをしてみたけど、自分なりにすとんと来ない。
意図された、あるいはせざる演出をされた二人の像を読んでみても、二人の関係の不思議さに迫るには無理がある。

「凛然として憎む」

2006-09-19 00:37:19 | よむ
青空文庫をふらふらしていたら、
『愛』宮本百合子の文章のその鮮烈さに打たれました。

「この社会にあっては条理にあわないことを、ないようにしてゆくこと。憎むべきものを凜然として憎むこと。その心の力がなくて、どこに愛が支えをもつでしょうか。愛とか幸福とか、いつも人間がこの社会矛盾の間で生きながら渇望している感覚によって、私たちがわれとわが身をだましてゆくことを、はっきり拒絶したいと思います。愛が聖らかであるなら、それは純潔な怒りと憎悪と適切な行動に支えられたときだけです。」

愛する者の生命力をそいでゆくものに対して、真っ当な憎しみを持つ人のこのつよい言葉は1948年のものでした。

そして、同じく青空文庫インデックス「ミ」から「モ」へ気ままにクリックしていたら、モオパッサン『ある自殺者の手記』

「私にはこの数年来一つの現象が起きているのだ。かつて私の目には曙のひかりのように明るい輝きを放っていた人生の出来事が、昨今の私にはすべて色褪せたものに見えるのである。物ごとの意味が私には酷薄な現象のままのすがたで現れだした。愛の何たるかを知ったことが、私をして、詩のような愛情をさえ厭うようにしてしまった。」

この愛もまた然り。


『もってのほか』

2006-08-22 15:07:10 | よむ
大庭みな子の小説を読んだのは、もう二昔も前のことだと思います。
いえね、読んだ、のかすら定かではないような気がしますけれども、
難解な比喩、ということが浮かびましたので、きっと、それなりには読んだのでしょう。

つい先日、
たまたま図書館帰りの母の鞄に入っていた大庭みな子の名を見つけ、
手にとって読みかけたら、
途中で閉じることができなくなってしまったのです。

『もってのほか』(大庭みな子・中央公論社)
1995年に出されてますから、作者60代半ばのころでしょうか。

自分ももはや何者かになろうと右往左往しなくて済む、わが子が何者になるのかの責任の一端を負わなくても済む、そんな年代の女性の人を見る目、世の中を見る目に興味がありました。

世の中には階段があってね、
上まで上らないと、世の中に出れないの、出ても損をするの。
そんな感じ方ももはや古臭いものでしょうが、少し長く生きてきてみれば、命の充実というのは、やはりそのような階段上りとは別のところにある気がしてなりません。

空耳かもしれませんが、
そんな声が聞こえてきそうな、『笛』というお話が好きでした。

中吊り広告

2006-08-20 05:00:12 | よむ
隣に座る人の新聞を横目読みするのも好きだけど、
電車の中で、雑誌の中吊り広告を見るのが好きだ。
ほぅと興味をひかれたり、ふぅんと興味をひかれなかったり、まさか!と思うものは、たいてい苦笑させられたりして、楽しい時間だけれど購買行動に直結させられるものは、そうは無い。

ところが珍しいことに、
そういえば芥川賞かと、ふぅん、の部類に入るはずだったのに、文芸春秋の今月の広告が目に留まった電車を降りて、すぐ、この雑誌を購入してしまっていた。
今更ながらだけど、キャッチコピーというのは、実に上手く出来ていると感心してしまう。

受賞作『八月の路上に捨てる』は
「格差社会」「底辺」「離婚」「フリーター文学」というキーワードによって広告されていて、そのキーワードは、振り返ってみればほぼ10年毎にに2,3作しか芥川賞作品を読んでこない私に、購買行動を促す力があった。

まんまと、といえば、まぁまんまとだけど、
読まない、買わない人が、つい、読んじゃった、こうてしまった、というように、人に変化を起こさせる言葉というのは、見事だ。

ところで、このように、
読んで即、行動化につながるという即効性を小説に求めることは、あたりまえに無い。
そんな限定された時代の最大公約数的なキーワードなど凌駕するもの、日常は何も変わらないかもしれない、けれど、あたりまえだったものが、ぐらり、と崩される世界が言葉で構成されているから、小説なのだとわたしは思っていた。






SAY YES

2006-06-25 00:52:50 | よむ
何度も言われたい”SAY YES”
(1991年CHAGE&ASKA、甘美な歌が流行りました。)
・・・
じゃなくって、
できるなら
一生聞かないで済みますように、
と願う
”SAY YES”

(あの)橋下弁護士著
『最後に思わずYESと言わせる最強の交渉術~かけひきで絶対に負けない実戦テクニック72~』(日本文芸社)

打々発止の交渉事は御免ですが、
いつ何時こういう場面に出会わないとも限らない。
自分では、最強!負けない!交渉術など使えないけど、
せめて
「あ~、この手で来てるのね」
と窮地に立たされた時に思えたら
しめたもの・・?

物語

2006-06-14 08:53:58 | よむ
「所詮はラベリングです」
とDSMについて説明をしながら、言った人がいました。真正面から批判できない場所で、それでも一言出てしまったかのような言葉でした。
患者をわかろうとするプロセスを説明した上で、優劣の問題ではなくパラダイムの違いにより精神科分類学は自然科学たりえない、と熊木徹夫は『精神科医になる~患者を〈わかる〉ということ』(岩波新書)の中で述べています。客観性や再現性を追求し、殊更に科学を標榜しようとするこの分野への違和感が丁寧に解きほぐされていく一冊です。
著者が治療の根拠としているのは、薬を介して患者の〈生体との会話〉を行う中で治療者に生成されていく物語。

------------------------ 引用 ----------------------------

精神科医の専門性のおおもとは、「物語」の作成のすべにあるといってもよいであろう。だが、「物語」は、臨床において両刃の剣である。すなわち、治療に圧倒的な説得力を与えそれを成功に導くこともあれば、治療者の独断がまかり通って治療状況を破壊へ追いやることもありうる。

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当然のごとく物語が生まれるだけでは何の作用もないけれど、問題はそれの伝達と二者間の距離であると指摘をして行くなかで、治療者自身の状態を常に意識に上らせることと治療者が二者間の距離コントロールすることの重要性を著者は説いていきます。また、患者を安堵に導く比喩が物語の伝達に有効であるのを、(疾患により物語の取り扱いは異なることを前提として)不安神経症の具体例を挙げながら説明されています。

精神科医とタイトルがついていますが、
もっと日常的にも、あなたをわかりたい、というおもいをもっている人には、示唆に富む本だと思います。

「そしてそのほとんどが、「物語」の筋を追うように、やがては治療者の手をはなれてゆく。」