おはんに心理的マゾヒズムを語り部の男にサディズムを作者とそれに共感する自身に退廃を言い及んだのは、奥野健男である。評論する立場に立つよりも読者としての男性的な視線を感じ、ここに言及した奥野健男の背景にもまた興味が湧くが、宇野千代自身が「おはんの中にもおかよの中にも自分がゐるやうに思はれ、話し手のあの男の氣持ちも、自分の心中を描いたやうに思はれます。」と述べているのはごく自然と受け取れると同時に何とも厳しい人間性を感じる。おはんはおはんにしかなれないから世俗の物差しでははかれない幸福を全うできたのであり、おかよはおはんを理解し得ないからこそ貫き通せると言うのに。そして、あの男の心中が見えていたらおはんにもおかよにもなれないであろうに。この点を奥野健男は文楽における人形遣いとして作者、宇野千代を見ている。確かに、作品の構造としてはそれを理解できるが、生身の人間がそれを成し得たことに、わたしは驚く。
宇野千代の作品にも実生活にもほとんど触れず、お互いの書簡を公開することでその大部分を占めている、青山二郎の宇野千代についての文章はとても不思議だ。青山二郎という人の得体の知れなさ、を感じる。知れないものは知りたくなる、とても知りたくなる。
『おはん』(宇野千代・新潮文庫)
『昭和文学全集10』(小学館)
Vicente Amigo
POETA 
久しぶりのビセンテ♪
宇野千代の作品にも実生活にもほとんど触れず、お互いの書簡を公開することでその大部分を占めている、青山二郎の宇野千代についての文章はとても不思議だ。青山二郎という人の得体の知れなさ、を感じる。知れないものは知りたくなる、とても知りたくなる。





久しぶりのビセンテ♪