大庭みな子の小説を読んだのは、もう二昔も前のことだと思います。
いえね、読んだ、のかすら定かではないような気がしますけれども、
難解な比喩、ということが浮かびましたので、きっと、それなりには読んだのでしょう。
つい先日、
たまたま図書館帰りの母の鞄に入っていた大庭みな子の名を見つけ、
手にとって読みかけたら、
途中で閉じることができなくなってしまったのです。
『もってのほか』(大庭みな子・中央公論社)
1995年に出されてますから、作者60代半ばのころでしょうか。
自分ももはや何者かになろうと右往左往しなくて済む、わが子が何者になるのかの責任の一端を負わなくても済む、そんな年代の女性の人を見る目、世の中を見る目に興味がありました。
世の中には階段があってね、
上まで上らないと、世の中に出れないの、出ても損をするの。
そんな感じ方ももはや古臭いものでしょうが、少し長く生きてきてみれば、命の充実というのは、やはりそのような階段上りとは別のところにある気がしてなりません。
空耳かもしれませんが、
そんな声が聞こえてきそうな、『笛』というお話が好きでした。
いえね、読んだ、のかすら定かではないような気がしますけれども、
難解な比喩、ということが浮かびましたので、きっと、それなりには読んだのでしょう。
つい先日、
たまたま図書館帰りの母の鞄に入っていた大庭みな子の名を見つけ、
手にとって読みかけたら、
途中で閉じることができなくなってしまったのです。
『もってのほか』(大庭みな子・中央公論社)
1995年に出されてますから、作者60代半ばのころでしょうか。
自分ももはや何者かになろうと右往左往しなくて済む、わが子が何者になるのかの責任の一端を負わなくても済む、そんな年代の女性の人を見る目、世の中を見る目に興味がありました。
世の中には階段があってね、
上まで上らないと、世の中に出れないの、出ても損をするの。
そんな感じ方ももはや古臭いものでしょうが、少し長く生きてきてみれば、命の充実というのは、やはりそのような階段上りとは別のところにある気がしてなりません。
空耳かもしれませんが、
そんな声が聞こえてきそうな、『笛』というお話が好きでした。