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観世会定期能

2008-06-02 21:23:03 | みる
2008年6月1日(日)11:00開演
観世能楽堂

邯鄲
シテ観世欽之丞 ワキ宝生閑

水無月祓
シテ山階彌右衛門 ワキ大日方寛

鵜飼
シテ武田尚浩 ワキ野口能弘


水無月祓と鵜飼の合間、観世清和舞う仕舞の「芭蕉」は強く印象に残った。
わずかに腕を上げるその所作一つで異界をみせてしまう、ありえないことが起こってしまう、そんな感じ。仕舞は面も装束も着けない、つまり異界へ導く装置がないということ。だから、わたしのような昨日今日ちょこっと能をみに来ましたというようなど素人には通常、仕舞は退屈な時間となる。なるはずが、この芭蕉ではならなかった。会場内のざわざわとした(まぁ、どうしたものか上演中もあちこちから耳障りな音が絶えない!)空気が徐々に、しいん、と鎮まりかえってくる。散漫だった人々が舞台一点に集中していく。体操やフィギュアスケートやバレエのように身体の運動性そのものが芸術的な価値を持つのとは全く違う。動き自体が人間業を超えていると感じさせるものではない。訓練を積まない人間にも難なく出来るであろう動作から、日常を超えたものが引き出されてしまう。おそらく、能が強くわたしを惹きつけるのは、この秘められ過ぎた身体性だ、と思った。何かある、と強烈に感じるのに、何が隠されてるんだか秘められているんだか、さっぱりわからない、というそういうところ。

「能にとって、所作の通り道が型であろうとなかろうと、それにかかわる発動の出所が、所作の純度を決定するのです。」(『能楽への招待』梅若猶彦著・岩波新書)

発動の出所というのは、内面、意志ということのようです。

紙一枚だって爆音になる

2008-06-02 20:38:09 | ぼぉっとしたり
演奏会で観客が演奏中にプログラムを取り出してページをめくる音、これは付近の席にいる者にとっては、かなり耳障りです。何しろ紙一枚ですから、まさか衣擦れならぬ紙擦れの音がひどく他人の神経を逆撫でている、などとは思いも寄らぬことなのでしょう。悪意を持ってプログラムを見るなんていうことは通常ありえないことですし、むしろ配布されたプログラムを読むというのは歓迎される行為ともいえます。でも、演奏中は、これ、爆音に等しいです。とても不愉快です。ましてや、プログラム開きついでに、手持ち無沙汰になって、プログラム丸めてパラパラ漫画見るみたいに、ページぱらぱらぱらっ、ぱらぱらぱらっ、て手遊びするのは、これはやはり言語道断の域に入るでしょ。先日、振り替えで行った読売交響楽団の芸術劇場での演奏会ではアンケート用紙が配布されましたが、このアンケート用紙、演奏中、わたしの並びの席ではずっと折り紙になってました。わたしもこの時までは、折り紙遊びが音出し遊びになるって知らなかった。折り紙遊びしちゃうくらい演奏からは気持ちが逸れているから、折り紙遊び人は、楽器の音と折り紙の音との関係については思い至る余地がないのでしょうね。
さらに、
昨日の能楽堂では、近隣席の方、かばんの中にスーパーのポリ袋が数個入っていて、そのかばんから上演中、上着を探して取り出している。
なかなか探し出せなかったようで、わたしはスーパーのポリ袋が擦れあう音をとても長く聞いていなければならなかった。さらさらにスーパーの小さいポリ袋に紙パックのお茶を入れて持参したようで、上演中ずっとそのポリ袋入りお茶を握りしめている。やはりわたしは絶え間なくポリ袋の音を聞いていなければならなかった。


おねがいです、静かにしてください。