2008年6月1日(日)11:00開演
観世能楽堂
邯鄲
シテ観世欽之丞 ワキ宝生閑
水無月祓
シテ山階彌右衛門 ワキ大日方寛
鵜飼
シテ武田尚浩 ワキ野口能弘
水無月祓と鵜飼の合間、観世清和舞う仕舞の「芭蕉」は強く印象に残った。
わずかに腕を上げるその所作一つで異界をみせてしまう、ありえないことが起こってしまう、そんな感じ。仕舞は面も装束も着けない、つまり異界へ導く装置がないということ。だから、わたしのような昨日今日ちょこっと能をみに来ましたというようなど素人には通常、仕舞は退屈な時間となる。なるはずが、この芭蕉ではならなかった。会場内のざわざわとした(まぁ、どうしたものか上演中もあちこちから耳障りな音が絶えない!)空気が徐々に、しいん、と鎮まりかえってくる。散漫だった人々が舞台一点に集中していく。体操やフィギュアスケートやバレエのように身体の運動性そのものが芸術的な価値を持つのとは全く違う。動き自体が人間業を超えていると感じさせるものではない。訓練を積まない人間にも難なく出来るであろう動作から、日常を超えたものが引き出されてしまう。おそらく、能が強くわたしを惹きつけるのは、この秘められ過ぎた身体性だ、と思った。何かある、と強烈に感じるのに、何が隠されてるんだか秘められているんだか、さっぱりわからない、というそういうところ。
「能にとって、所作の通り道が型であろうとなかろうと、それにかかわる発動の出所が、所作の純度を決定するのです。」(『能楽への招待』梅若猶彦著・岩波新書)
発動の出所というのは、内面、意志ということのようです。
観世能楽堂
邯鄲
シテ観世欽之丞 ワキ宝生閑
水無月祓
シテ山階彌右衛門 ワキ大日方寛
鵜飼
シテ武田尚浩 ワキ野口能弘
水無月祓と鵜飼の合間、観世清和舞う仕舞の「芭蕉」は強く印象に残った。
わずかに腕を上げるその所作一つで異界をみせてしまう、ありえないことが起こってしまう、そんな感じ。仕舞は面も装束も着けない、つまり異界へ導く装置がないということ。だから、わたしのような昨日今日ちょこっと能をみに来ましたというようなど素人には通常、仕舞は退屈な時間となる。なるはずが、この芭蕉ではならなかった。会場内のざわざわとした(まぁ、どうしたものか上演中もあちこちから耳障りな音が絶えない!)空気が徐々に、しいん、と鎮まりかえってくる。散漫だった人々が舞台一点に集中していく。体操やフィギュアスケートやバレエのように身体の運動性そのものが芸術的な価値を持つのとは全く違う。動き自体が人間業を超えていると感じさせるものではない。訓練を積まない人間にも難なく出来るであろう動作から、日常を超えたものが引き出されてしまう。おそらく、能が強くわたしを惹きつけるのは、この秘められ過ぎた身体性だ、と思った。何かある、と強烈に感じるのに、何が隠されてるんだか秘められているんだか、さっぱりわからない、というそういうところ。
「能にとって、所作の通り道が型であろうとなかろうと、それにかかわる発動の出所が、所作の純度を決定するのです。」(『能楽への招待』梅若猶彦著・岩波新書)
発動の出所というのは、内面、意志ということのようです。