FMEN式雑記

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4の防衛線

2021-05-30 14:10:45 | 教育・教養・学校・学生

突然ですが、コレ↑何の線だと思いますか?
今回は、ノーヒント。

これは、令和3年段階での秋田市立四ツ小屋小学校の学区域。
紫の内側は四ツ小屋小学校に通うことになる。
ながねん秋田市の最南端であり、岩見川・雄物川より手前と、古川より奥と見ても良い。

四ツ小屋小学校は明治7年に城下当場の地にできている。
仁井田小学校よりも早い(そもそも村違いである)。
その後おなじように尋常小学校、国民学校をへて1954年に秋田市に合併、市立化。

この城下当場は四ツ小屋のいまの中心からはなれているが、昔はここが中心地で郵便局や圓通寺がその名残。
大正7年に国鉄が開通してから中心が動いたようだ。
かつてはそこから芝野や雄和まで行くバスが運行されていた。

1983年に、やや北側にうつしたいまの位置に移転。

1984年にできる御野場中学校や1982年の明徳小学校よりも、前世代のボックス校舎に近い。

なんでこの場所かというと、御野場団地の開発が始まったから。
御野場団地は、四ツ小屋字船場前地区の国道バイパス南側の土地を1975年から造成して、1976年に第一次分譲、1980年に第二次分譲された。
県営団地も誘致され、仁井田四ツ小屋方面に消極的な市営バスも乗り入れてまさに希望と命運のかかる再開発に。
そっから近い位置にしていされたのが、ここ。

ちなみに御野場という住所は当時圓通寺のあるあたりの小字であり、1989年に住居表示されて大字化した。

とうぜん、四ツ小屋小の大部分は御野場団地。
1975年に160人の児童が、1980年には263人、1985年には642人と激増している。
1989年の御所野ニュータウン完成のときも当時は四ツ小屋であったが、大半が上北手小扱いであった。
(末戸松本だけは四ツ小屋で御所野小は上北手と四ツ小屋から為していたことになる)
1984年に仁井田の学区界のようなはずれにできたのに、名前が御野場中学校なのもおそらくこれが絡むのかな。

ただ、四ツ小屋はこっからピークダウンする。
初期入植者の年齡が上がり、第三分譲は仁井田小学校に振り分けられていき、核家族化で子供夫婦が第三分譲地にというトレンドが生まれた。
(第三分譲地の御野場新町は仁井田であったため)
そのあたりに仁井田南小学校案や御野場新町を四ツ小屋変更案が出たりした。
そっからは少子高齢化をうけ、いまに至る。


ちかくの標識は、下新城や大曲や浅内にあるようなタイプだが、個性的な表示でない。


何回か、「四ツ小屋なのに仁井田だった、仁井田に近いのに四ツ小屋に振り分けられた不思議な地域」にふれたが、これが上の地図。
紫が四ツ小屋小学校の学区線で、オレンジは旧四ツ小屋村の境界線。
オレンジがかぶっていない部分に注目。
ここが旧四ツ小屋字船場前と旧四ツ小屋与左衛門河原地域である。
かぶってない地域は仁井田小学校であり、四ツ小屋から通う仁井田小学校生が唯一いた地域。
1993年に住居表示で仁井田にかわった。
船場前側はカーショップしかないが、与左衛門側は住んでるひとがいた。
ただ、杓子定規な指定をしたため、さらに東の仁井田古川向地区はいまも仁井田扱いである。
ここまでなるなら、御野場団地北部や住居表示回避した与左衛門河原地域も仁井田扱いでいいと思う。

南部の小学校適正配置事業が進むのと、校舎の老朽化で、また学区が変わるかもしれない。