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Contens |
信じがたい民族性 | |||
偽証に悩む韓国の法廷 | 朝鮮日報記事 | (2009年8月19日) | |
朝鮮日報社説 | (2010年2月2日) | ||
日本海呼称問題 | ニューヨークタイムズ広告 | (2009年5月11日) | |
聯合ニュース配信 | (2006年1月22日) | ||
1. 『竹島』はSF条約締結にともない日本領土 | |||
SF条約締結で確定 | |||
ラスク書簡 | |||
韓国に領有根拠なし | |||
2. 1905年、『竹島』を日本領土に編入は有効 | |||
朝鮮は『竹島』を認識していない | |||
『竹島』を領土編入 | |||
領土編入は有効 | |||
勅令に『独島』の記載なし | |||
3. 『独島』の領有権を示す史料が皆無の韓国 | |||
ここにも独島、あそこにも独島 | |||
「于山島=独島」の主張は無理 | |||
日本人には理解不能 | |||
独島が見えるヨ | |||
『独島』は国内統一の要(かなめ) | |||
4. 日本が『竹島』の領有権を放棄した史実なし | |||
領有権を争うならば、対象は鬱陵島 | |||
竹島・松島の島名混乱 | |||
『松島』は何処だ | |||
内務省の、苦渋の決断 | |||
『竹島』は太政官指令「外一島」ではない | |||
5. 『竹島』の領有権は、安龍福とは全く関係なし | |||
ホラ吹き 安龍福 | |||
韓国の超英雄 安龍福 | |||
安龍福の「言葉」にすがる | |||
珍妙な論理「歴史的事実」 | |||
于山島=倭の松島? | |||
本当の「歴史的事実」 | |||
領海は政府間の合意 | |||
安龍福が語る松島は『子山島』 | |||
韓国側の反応 | |||
補足説明 | |||
とりあえず告訴・告発 | 中央日報記事(2008年10月20日) | ||
奇誠庸選手の「猿まね」 | AFCアジアカップ2011 | ||
偽証に悩まされる韓国の法廷 | 朝鮮日報記事(2009年8月19日) | ||
補足説明A | |||
李承晩大統領の戦略 | 朝鮮戦争の裏で李ライン | ||
SF条約草案の経過 | SCAPIN(連合軍最高司令部訓令) | ||
補足説明B | |||
『万国公法』 | 坂本龍馬 | ||
『竹島』の名 | 島名の混乱 | ||
大韓帝国勅令第41号 | 鬱陵島の管理 | ||
皇城新聞記事(1905年6月1日付) | 日本海海戦(日露戦争) | ||
皇城新聞記事(1906年7月13日付) | 鬱島郡の配置顛末 | ||
補足説明C | |||
『三国史記』 | 朝鮮の古文献 | ||
『高麗史』 | 朝鮮の古文献 | ||
『世宗実録』地理志 | 朝鮮の古文献 | ||
『東国輿地勝覧』 | 朝鮮の古文献 | ||
産経新聞記事(2007年5月5日付) | 独島博物館 | ||
聯合ニュース記事(2008年9月12日) | ダンビルの古地図 | ||
鬱陵島から独島を撮影 | 韓国公開の写真 | ||
補足説明D | |||
「朝鮮国交際始末内探書」 | 明治3年史料 | ||
照会文(地理寮→島根県) | 明治9年史料 | ||
回 答(島根県→内務省) | 明治9年史料 | ||
伺 い(内務少輔→右大臣) | 明治10年史料 | ||
太政官の指令案 | 明治10年史料 | ||
「由来の概略」 | 『竹島』の扱い | ||
『磯竹島略図』(大谷家図面) | |||
空島政策 | 鬱陵島をめぐる日朝遣り取り | ||
竹島一件 | 鬱陵島の扱い | ||
補足説明E | |||
産経新聞記事(2010年8月23日) | 古地図発見 | ||
聯合ニュース記事(2010年8月24日) | 韓国側反応 | ||
一部メディアの反応 | 韓国側反応 | ||
保坂 祐二氏 | 韓国側理屈 | ||
朝鮮が記した国土の東限 | |||
ラスク書簡 | |||
ラ ス ク 書 簡 | 『竹島』について米国意図 | ||
ヴァン・フリート特命報告書 | 『竹島』について米国意図 | ||
独 島 | |||
独島は我が領土(歌詞) | 国民の愛唱歌(洗脳歌) | ||
同胞虐殺の歴史 | 光州事件など(虐殺20万人以上) | ||
安龍福 | |||
安龍福 最初の来日 (概略) | |||
安龍福 2度目の来日(概略) | |||
『村上家文書』 | 日本の史料 | ||
『粛宗実録』 | 朝鮮の史料 | ||
産経新聞は16日付朝刊1面トップで、慰安婦募集の強制性を認めた平成5年8月の河野洋平官房長官談話の根拠となった、韓国での元慰安婦とされる16人の聞き取り調査報告書について、不正確な発言や食い違いが多数あるなど、ずさんな内容だったことをスクープしました。報告書を入手したうえでの報道ですから、記事は事実で衝撃的な内容ですが、これによって「河野談話」の正当性は根底から崩れたといえます。
河野談話は元慰安婦に心からのおわびと反省の気持ちを表明し、慰安婦の募集については強制連行の存在を示す政府資料が一切見つかっていないにもかかわらず、「官憲等が直接これに荷担したこともあった」「募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた」と強制性を認定したものです。
以降、歴代政権はこの談話を継承し、韓国だけでなく諸外国からこの問題について日本は批判され続けてきたわけですが、今回の産経新聞の報道によって談話の正当性が崩れた以上、政権は今後、継承するのかどうか、改めて問われることになるでしょう。
産経新聞が入手した報告書を改めて説明すると、元慰安婦とされる16人への聞き取り調査の結果として、慰安婦になった理由や経緯、慰安所での体験などが記されており、そこには無理やり連れて行かされ、客を取らされるなど悲惨な境遇が描写されています。
しかし、当時、朝鮮半島では戸籍制度が整備されていたにもかかわらず、生年月日が記載されているのは半数の8人しかおらず、出身地についても12人が不明・不詳となっています。氏名も名字だけなど不完全なものが見当たります。
また、連れていかれた場所も大阪、熊本、台湾など、戦地ではなく一般の娼館はあっても慰安所はなかった地域で「働いた」との証言もあります。
そもそもこの調査は証言者の人選を韓国側に任せたあくまで「聞き取り」であって、「事実確認」はしていませんでしたから、信憑(しんぴょう)性が疑われていました。その報告書自体がこれほど不正確、曖昧だったとすれば、それをもとに官房長官談話という国を代表する談話を出したことは、重大な問題だといっていいでしょう。
産経新聞は同日付政治面で、談話作成時に事務方トップだった石原信雄元官房副長官のインタビューを掲載しました。その中で石原氏は、当時について「証言内容をチェックする時間はなかった。私は担当官の報告を聞いて判断した。紙(報告書)は見ていない。報告を聞いて心証で談話をまとめた」と証言。報告書が曖昧で不正確だったことについては「(談話の)基本がおかしくなる。もともとの証言の信憑性が揺らいでくる」と述べました。
談話のとりまとめにあたった責任者がこう述べているのですから、産経新聞の報道で談話の新たな欠陥が明らかになったと言えます。それにしても、慰安婦問題にいつも熱心な朝日新聞、毎日新聞がなぜ、これほどの事実を報道しないのでしょうか。報告書を入手するだけの取材力がないのかもしれませんが…。
産経新聞の報道を受けて、22日の衆院予算委員会で、日本維新の会の中田宏氏は河野談話に関する集中審議を開き、報告書の公表と、談話を発表した河野氏と作成にかかわった石原氏の参考人招致を行うよう求めました。
ぜひ、やろうではありませんか。河野談話に賛成の党もあれば、反対の党もありますが、事実を解明することにはだれも反対する理由はないはずです。報告書も内容からいって国家機密には当たりませんから、公表してもらいましょう。そのうえで事実を明らかにし、談話を今後、どうすべきか議論すべきだと思います。
日本は河野談話を発表したことによって、韓国をはじめ諸外国から「レイプ国家」とまで批判されてきたわけですから、国家、国民の威信にかかわる話です。国会には真相を明らかにする責務があります。
一方、産経新聞の報道の3日前の13日、朝日新聞は1面トップで「慰安婦問題拡大を阻止 政府、東南アで調査せず」との“スクープ”を掲載するとともに、「慰安婦問題 政治の意志があれば」との社説を掲載しました。
記事は、河野談話が出る直前の平成5年7月30日付の極秘公電の内容として、当時の武藤嘉文外相が日本政府が韓国で実施した元慰安婦とされる人物からの聞き取り調査に関連し、フィリピン、インドネシア、マレーシアにある日本大使館に対し「関心を徒(いたずら)に煽(あお)る結果となることを回避するとの観点からもできるだけ避けたい」と伝えていたというものです。
しかし、私が記事を読んでまず思ったのは、3カ国から調査の要請があって、それを内密に拒否していたというわけではありませんから、1面トップで問題にするほどのことかということです。3カ国は政治問題化させて強硬に調査を求めていた韓国とは状況が全く違うのですから、同列に扱うのはいかがなものかと思います。
さらに、この記事には《解説》もつけられていて、内容は3カ国のことを問題にするのではなく、韓国での聞き取り調査の方に話題を転換し、元慰安婦に対して「救済どころか、実態調査さえ行われていない」と、日本政府の対応を厳しく批判するというものでした。朝日新聞が韓国の元慰安婦の事実をそれほど知りたいのなら、なぜ、3日後の産経新聞の報道を取材して後追いしないのでしょうか。
また、社説は「野田(佳彦)前政権と韓国の李明博前政権が昨年、旧日本軍の慰安婦問題の解決に向け話し合いを進め、政治決着の寸前までこぎ着けていたことが明らかになった。解決に向けた強い意志が指導者にあるならば、歩み寄りは可能だということがわかる」とし、「この時を逃さずに交渉を引き継ぎ、最終解決を導く話し合いを早急に始めるべきだ」と主張しました。
さらに、社説によると、その政治決着とは「駐韓日本大使が元慰安婦に会って謝罪。それを受けて日韓首脳会談を開き、日本側が償い金などの人道的措置をとることを表明する。人道的措置の原資には、政府予算をあてる」というものだそうです。元慰安婦の強制性について事実確認が行われてもいないのに、そんな決着を行うことが果たして正しいことなのでしょうか。
そもそも1965年の日韓基本条約には「一方の国及びその国民に対するすべての請求権であっても、1945年8月15日以前に生じた事由に基づくものに関しては、いかなる主張もすることができないものとする」と明記されています。つまり、この条約によって韓国と韓国国民は戦前の事案について請求する権利を放棄したのです。
それにもかかわらず、日本の政府予算つまり国民の税金から「償い金」を出すということは、条約に反することになります。仮に政治決着させるというなら、日本国民の意思を問うたうえで、条約を改正してから行うべきでしょ
そして、朝日新聞の報道から3日後、産経新聞によって、元慰安婦とされる人物に対する調査の「聞き取り」の不正確さ、曖昧さが明らかになりました。私は改めて、日韓の前政権が「誤った政治決着をしなくて良かった」と思った次第です。
朝日新聞が本当に元慰安婦について事実を明らかにしたい、問題を“決着”させたいと考えるのなら、聞き取り調査報告書の公表と、河野氏らの国会招致に賛成すべきではないでしょうか。国会、それもテレビ中継されている中で、つまり国民の目の前で正式に提起されたことですから、朝日新聞もきちんと報道し、社説で見解を示してもらいたいと思います。
国会で報告書の公表と河野氏らの招致が実現したら、それをもとに元慰安婦への対応をどうすべきか議論しましょう。産経新聞と朝日新聞の報道のどちらが正しいのか 早期に決着つけようではありませんか
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ウイグル族締め付け 「二重基準」の中国
中国北西部の新疆(しんきょう)ウイグル自治区で今年4月以降、暴力事件が相次ぎ、多数の死傷者が出ている。新疆ウイグル自治区公安庁は2日付で、テロ犯罪の情報を提供し、容疑者拘束に貢献した場合などには最高10万元(約160万円)の報奨金を支払うとの通告を出した。区都ウルムチで発生した大規模暴動から5日で4年となるのを前に、ウイグル族への締め付けが、より強化されたことを示している。
テロ情報に報奨金
発布された通告は5項目からなる
☆ 暴力恐怖活動(テロ)を知った各民族の群衆は、口頭、書面、電話、インターネットなどを通じて、公安機関に通告すべし。公安機関はそれを奨励し、告発者を保護し、秘密を守る。
☆ テロ犯罪の手がかりを提供し、公安機関による摘発、テロ分子の拘束に重要な作用を発揮した場合は5万~10万元(約80万~160万円)を与える。
☆ 事情を知りながら通報しなかったり、犯人を庇(かば)ったり、匿(かくま)ったり、テロ分子を幇助(ほうじょ)した場合は、法に従って責任を追及する。
☆ テロ活動に関係したが自首した場合は、罪を軽くする。自首が重大な手柄となれば、減刑もしくは罪を免除する。
☆ この通告は発布日に施行される。
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危険性をはらむ通告
通告が出たことで、当局は「通報」を口実に、ウイグル族の取り調べや家宅捜索を強化することが予想される。ウイグル族と対立する漢族が、虚偽の通報をすることも考えられる。さらに、自分の身に火の粉が降り掛かることを憂慮するウイグル族の間でも、疑心暗鬼となり、ウイグル族の分裂が誘発されかねない。
こうした状況に、国際社会、特に米国は危惧を表明している。それに対し、中国外務省の華春瑩(しゅんえい)報道官(43)は2日の定例記者会見で、一連の事件に関し透明性を強調。「国際社会は全面的に、客観的に事件を見て、事件の真相をはっきり認識することを望む」と反発した。
中国は、新疆で暴力事件が起こると、外国のテロ組織が関与していると主張するのが常だ。中国共産党機関紙、人民日報は、「世界ウイグル会議」が4年前のウルムチ暴動の「黒幕」だと強調。さらに、「周知の事実なのは、世界ウイグル会議の主人が米議会傘下の全米民主主義基金であることだ」と断定している。
習近平国家主席(60)は先日、韓国の朴槿恵大統領(61)から、初代韓国統監を務めた伊藤博文元首相(1841~1909年)を暗殺した安重根(アン・ジュングン、1879~1910年)の記念碑を、暗殺現場の中国黒竜江省ハルビン駅に設置するための協力を要請された際、「関係部署に検討するよう指示する」と答えたと伝えられる。少なくとも、「テロリスト」を英雄視する朴大統領の考えに反論した形跡はない。
もし、テロ抑圧を唱える習氏が、テロリストを称える記念碑の設置を許可すれば、それこそ「ダブルスタンダード」のそしりを免れない
中国東北部のスモッグ http://youtu.be/7w17ofgBTW4
ハルピン市 視界は10m http://youtu.be/LBMka6YqtWk
ハルピン市 http://youtu.be/iI3o2IWaso0
大気汚染 http://youtu.be/_82jedb66nk
北京市内実際の映像 http://youtu.be/v9uH4pG5Sr4
すさましい中国の環境汚染 http://youtu.be/pJVWM6hTjhg
中国製品が危ない http://youtu.be/eP3m9_C6Y_A
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沖縄での陸軍による航空特攻作戦は、米軍主力が沖縄南西にある慶良間(けらま)列島に上陸した1945年(昭和20年)3月26日から始まりました。特攻作戦とは、重さ250kgの爆弾を装着した戦闘機で敵の艦船に体当たりして沈める、パイロットは必ず" 死ぬ・亡くなる" という『必死』条件の作戦でした。
特攻作戦には、知覧基地を始め、宮崎県の都城など九州の各地、そして当時日本が統治していた台湾など多くの基地から出撃していますが、知覧基地が本土最南端だったということもあり最も多く、全特攻戦死者1, 036名のうち、439名(中継基地となった徳之島・喜界島を含む)、全員の半数近くが知覧基地から出撃しています。
本格的な特攻作戦は、陸海軍共同で4月6日第1次総攻撃として始まり、7月19日第11次総攻撃の終了まで続きました。
特攻部隊のうち、九州から出撃した部隊は" 振武隊(しんぶたい)"、台湾から出撃した部隊は" 誠飛行隊(まことひこうたい)" と呼称しています。
3月26日開始された慶良間(けらま)列島海域への特攻作戦は、沖縄本島・石垣島・宮古島から出撃しましたが、4月1日沖縄本島に上陸後は、九州及び台湾から出撃するようになりました。
出撃地 | 人数 | |
---|---|---|
鹿児島県 | 知覧 | 402名 |
徳之島 | ※ 14名 | |
喜界島 | ※ 23名 | |
万世 | 120名 | |
鹿屋 | 12名 | |
宮崎県 | 都城東 | 73名 |
都城西 | 10名 | |
新田原 | 38名 | |
熊本県 | 健軍 | 127名 |
菊池 | 1名 | |
福岡県 | 大刀洗 | 14名 |
蓆田 | 4名 | |
山口県 | 小月 | 2名 |
沖縄県 | 沖縄 | 20名 |
石垣 | 31名 | |
宮古 | 10名 | |
台湾 | 宜蘭 | 37名 |
台中 | 31名 | |
八塊 | 32名 | |
桃園 | 15名 | |
花蓮港 | 15名 | |
竜潭 | 5名 | |
合計 | 1036名 |
※ 徳之島は(知覧→徳之島)、喜界島は(知覧→喜界島) をそれぞれ経由した数。
都道府県 | 隊員数 |
---|---|
北海道 | 35名 |
青 森 | 9名 |
岩 手 | 18名 |
宮 城 | 27名 |
秋 田 | 9名 |
山形 | 10名 |
福 島 | 22名 |
茨城 | 25名 |
栃木 | 28名 |
群馬 | 24名 |
埼玉 | 22名 |
千葉 | 27名 |
東京 | 86名 |
神奈川 | 31名 |
新潟 | 17名 |
富山 | 13名 |
石川 | 17名 |
福井 | 8名 |
山梨 | 6名 |
長野 | 30名 |
岐阜 | 21名 |
愛知 | 43名 |
静岡 | 22名 |
三重 | 18名 |
滋賀 | 10名 |
都道府県 | 隊員数 |
---|---|
京都 | 26名 |
大阪 | 35名 |
兵庫 | 28名 |
奈良 | 8名 |
和歌山 | 14名 |
鳥取 | 9名 |
島根 | 8名 |
岡山 | 26名 |
広島 | 28名 |
山口 | 20名 |
徳島 | 13名 |
香川 | 17名 |
愛媛 | 13名 |
高知 | 6名 |
福岡 | 43名 |
佐賀 | 22名 |
長崎 | 18名 |
熊本 | 20名 |
大分 | 25名 |
宮崎 | 20名 |
鹿児島 | 40名 |
沖縄 | 6名 |
樺太 | 2名 |
朝鮮 | 11名 |
合計 | 1,036名 |
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平成19年に公開された映画「俺は、君のためにこそ死ににいく」で忠実に復元された陸軍戦闘機です。
昭和49年に建立。伊藤 五百亀(いほき)氏製作。
昭和31年に建立。参道の脇にあります。
飛行場の門柱が移設されています。 その後には、知覧教育隊関係者によって記念碑が建立されています。
毎年5月3日、慰霊祭が行われています。観音堂は平成17年、第50回祭を記念して改築されました。
県道を始め、観音堂に続く道には全国の遺族・関係者・有志から寄進された灯ろうが並んでいます。
練習機の潤滑油やグリースなどを保管した倉庫です。 壁面には荒々しい円錐状の窪みが何箇所も刻まれています。これは昭和20年3月以降、米軍の空襲を受けた時の傷跡です。
飛行演習は飛行場の周辺を飛ぶ場周飛行、宙返りなどの特殊飛行、複数機で飛ぶ編隊飛行などを経て、射撃訓練も行いました。 その射撃訓練用の機銃弾が入れてありました。
知覧飛行場の正門です。 左上は現在、右上は戦時中の写真で、ほぼ同じ場所から撮影したものです。門柱にかかる看板には「大刀洗陸軍飛行学校知覧教育隊」と書かれています。 昭和16年の飛行場の完成から昭和19年までは飛行兵の訓練場として使われました。 門柱は現在、参道の脇に移設されています。(下2点は飛行兵の訓練風景)
飛行場は台地にあるので水の確保に苦労しました。 町の麓を流れる思川から取水しポンプアップして高架式のタンクに貯水しました。 戦時中は真っ直ぐ立っていましたが、地盤が悪かったため現在ではピサの斜塔のように少し傾いています。高さは約13m、直径は約6mあります。
防火用の水槽で、もともとは3基ありました。残る1基が私有地にあったため、平成16年に現在の場所に移築されました。 お椀型に地面が掘られ、直径は約10mあります。
どのくらいの高度で飛行機を接地させればよいのかを体感させる施設の一部です。約150m先に櫓があり、そこからワイヤーを引き、簡易な練習機を滑車で滑らして訓練しました。
特攻機が出撃する時は一旦出発線に近い滑走帯脇で待機し、出撃の指示を待ちます。 指示が出ると出発線に前進し、離陸の合図と共にエンジンを全開にして、離陸していきました。
木造の建物があり、参謀など司令部要員が詰めていました。 現在の空港で言えば管制塔のような役割を担っていました。
知覧高等女学校の生徒達には、特攻隊や掩護部隊への奉仕が命じられました。 そして基地の中では食事の準備や裁縫などを行い、短い期間でしたが特攻隊員達との交流がありました。 左の写真は昭和20年4月12日、出発線に向かう第20振武隊の穴澤利夫少尉を八重桜の枝を振って見送る場面です。右は同じ場所の現在の様子です。
コンクリート製半地下式の壕で、特攻機から送られた無線の受信や各飛行場との連絡を行いました。 戦後、爆破されたため痕跡はありませんが跡地には石碑が建立されています。
空襲を避けるため飛行場から少し離れた松林の中に三角兵舎が造られました。 三角兵舎は半地下式木造のバラック建てで、屋根には偽装用の幼木をのせていました。ここで特攻隊員達は出撃までの数日間を過ごしたのです。 現在、その跡地には三角兵舎跡の石碑が建てられています。 また、特攻平和会館の隣には復元された三角兵舎があり、当時を偲ぶ事が出来ます。
掩体壕とは、コの字型に土塁を築き、近くに爆弾が落ちた場合でもその破片及び爆風から飛行機を守るためのシェルターです。 土塁の高さは戦闘機などの小型機用でも4m以上はとっていたので隼(Ⅲ型甲の全高は約3.2m)も十分覆われるようになっていました。 昭和20年以降、飛行場は空襲の標的にされていたので知覧に進出すると機体はすぐに掩体壕内に格納され、雑木の枝で偽装されていました。
第3攻撃集団の司令部として使われた壕がこの山の斜面に掘られていました。 空襲が激しくなったため、昭和20年6月頃に川辺町の西之原に移転しました。
航空機は精密機械のようなもので常時の日常点検と定期的なオーバーホールが必要です。 分廠ではオーバーホールや故障機の修理、補給部品の製作など難易度の高い整備を行いました。
山頂からは飛行場跡を一望でき、はるか彼方には開聞岳を眺めることができます。 戦時中はこの基地から多くの特攻機が飛び立ち、米軍からの度重なる空襲を受けました。 当時は死闘が繰り広げられた場所ですが、飛行場は長い年月のうちに畑や住宅地に変わっていきました。そのため、現在の景色から当時の情景を想像するのは難しいと思います。
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出身地 | 茨城県常総市 |
---|---|
隊名 | 第45振武隊 |
年齢 | 29歳 |
藤井一少佐は歩兵科出身で熊谷飛行学校の中隊長として少年飛行兵の精神教育を担当していました。教え子達が戦死する中、自らも特攻を志願しましたが、航空技術の専門ではなかったので願いは聞き入れてもらえず、特攻への志願、却下がくり返されました。
そんな中、夫の固い意志を知った奥さんは、『私達がいたのではこの世の未練になり、思う存分の活躍が出来ないでしょうから、一足お先に逝(い)って待っています』という遺書を残し、長女と次女を連れて飛行学校近くの荒川に身を投げました。
妻子の死を無駄にしまいと藤井少佐は再度、特攻への志願を強く訴えました。軍でもこうした事情を考慮した結果、特攻志願を受理することとなりました。家族が亡くなった後、幼い二人の娘に宛てた遺書が館内に展示してあります。
ペ
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出身地 | 福岡県古賀市 |
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隊名 | 第24振武隊 |
年齢 | 21歳 |
昭和20年4月29日、安部大尉は知覧基地から出撃しましたが、途中でエンジンの調子が悪くなり、鹿児島の南約60キロ離れた黒島(くろしま)近くの海に着水しました。島民に助けられて上陸すると、そこには同じくエンジントラブルで島に不時着した特攻隊員がいました。その隊員は着陸に失敗し、全身に大火傷(おおやけど)を負っていました。
安部大尉は、「その隊員に火傷の薬を届けたい、また、もう一度出撃して任務を達成したい」との思いから、本土に戻る決心を固め、無謀な行為だと承知しながらも当時牧場で働いていた安永克己(やすながかつみ)青年と共に小さな伝馬船で鹿児島本土を目指しました。
奇跡的に知覧基地に戻ることが出来た安部大尉は5月4日に再出撃し、途中、黒島上空を通過した際に火傷を負った隊員の薬などを投下し、沖縄に向かって飛んで行きました。