山元町の海辺には、福島との県境近くに「磯崎山公園」という小高い場所がある。
磯崎山は眺望が良く、海が見渡せる。
藩政時代に、外国船を監視するための「唐船番所」が置かれていたことで知られている。
磯崎山公園へ行くと、海側の丘陵の上に見える東屋が唐船番所跡であった。
今は、上り口の階段辺りは荒れていて、東屋の前にある柵も壊れている。
津波が丘陵を上り、頂上の目の前まで濁流が迫ったそうだ。
磯崎山の脇を、小川が流れている。「赤川」という名だ。
赤川を辿って西へ進むと、沼に突き当たる。これが「水神沼」といい、隣に「水神社」があった。
津波はここへも押し寄せたらしい。
水神社は、周囲の木々が緩衝になったのか、外観は残っている。ご神体などの中身は運び出されたものか、今は空っぽだ。
沼は静かで、穏やかに水面を揺らし、輝かせている。
「水神沼」は、古くから農業用水として利用され、幾度か起きた干ばつの時にも、枯渇する事がなかったという。
昔話では、大蛇がこの沼の主だったそうだ。
ある時、家族総出で農作業をするため、赤子をエジコに入れて田んぼの端で待たせていたところ、それに大蛇が巻きついたので、驚いて大蛇を退治した。
ところが、大蛇は赤子を守っていただけだったと、後で知る。
そこで、大蛇のために松の木を植え、祠を建てて祀ったという話があった。
その「蛇塚と松」は、水神沼からずっと西の離れた場所にある。
樹齢300年は越えると言われているが、これを植えて蛇塚を作ったのが大條家臣の川名氏だという話だから納得だ。
大條氏が坂元城主となったのが1616年、江戸前期の頃。
坂元城の南側に中山地区があるが、そこに城外武士の住居が、11軒あったらしい。
「蛇塚と松」は、中山の近くで瀧ノ沢と山室の脇、現在の宮城野ゴルフクラブの辺りにある。
察するに、おそらくは大蛇の散った地は水神沼付近で、後になって蛇塚を作ったのは、移り住んだ屋敷近くだったのではあるまいか。
今、磯浜周辺は集落が消え、緑と水の輝きが、震災の傷を和らげるようにそこにある。
水神沼は、その沼底に昔の津波の跡を沈めていたという。
水神社は、磯浜の人々が神輿を担いで、春や夏に祭りをしてきた所だ。
楽しみだった祭り、神輿担ぎの伝統がまた繋げられるよう願っている。