於:日本武道館

43歳のころの私

左端が私

左から2番目(奥側)

前列左端

左から2番目 中央は館長(師匠)
いきなりこの写真で『何ごと?』と思われた方も
いらっしゃるのでは・・・・
以下の記事で戦国武将の姿にやや陶酔気味の私が若き頃(43歳)の
武者姿の懐かしい写真で思いに耽ってみたのだ。
その頃の私は上福岡(今のふじみ野市)に住んでおり、30代半ばから
居合道の稽古に夢中であった。
居合道をご存じの方も多いと思うが、空手などと同じように「型」と
「実戦」があり、実戦では実際に接近して刀を合わせることなく、
少し間隔を開けて、刀を抜いた状態で相手と対峙し『用意・・・始めっ』の
合図と共に素早く納刀(刀を鞘に納めること)して、次の瞬間には
再び素早く刀を抜いて相手を倒す・・・という試合形式。
もう一つは「先手」「後手」に分かれて両者が向かい合い、先手側が
抜き始めてから後手側がその剣先を避けると同時に刀を抜いて応戦する・・・
というもの。
師匠であり、道場主であり帝京高校の先生でもある館長や稽古仲間
たちとの写真を見ているとあの日のことが懐かしく思い出される。
これらの写真は例年行われる「日本武道館」の鏡開き、武道始めに
伴う武者行列に参加したときのもの。
(今年はコロナウィルスの観点から中止となったようだ)
武道、武術を習っている人達が多い中でこの武道館開きの一員に
加わることができたのは一生の思い出でもある。
さて、今日の本題に・・・
今朝から先日録画しながら観た『麒麟がくる』の総集編を愛読書(?)の
一つである『日本史1200人』を傍らに置いて人物を再確認しながら
楽しんだ。
この物語以外にも戦国時代、群雄割拠の世の中では家や家督を守る
ためにやむを得ない事情もあるとは言え、主君を変えたり、親兄弟と
戦ったり、裏切り行為など本来あるまじき事もかなり頻繁に行われて
いたようだがやはり見る角度やそれぞれの立場を考えるとその底に
あるものも考えなければならないのかもしれない。
私達が子供の頃から教えられたり伝えられたりしてきたそれぞれの
武将の生き方、生き様などが私の場合、自分の考えや行動にも少なからず
影響を与えてきたものもあると思う。
ブログ友「すずさん」の昨日の記事の徳川慶喜のようにいろんな評価が
される人物も多い中で、江戸時代(元禄年間)の忠臣蔵(赤穂義士)に
ついてもいろんな評価がされているがやはり物心ついた頃から見聞きした
ものへのイメージはなかなか簡単には変わらないことも事実・・・・
戦国武将たちの中でも私が好きなのは「真田幸村」「上杉謙信」「楠正成」
「大谷吉継」などだが彼らはいずれも私利私欲にとらわれず、「義」を
尊んだところに魅力を感じるのだが・・・
「真田幸村」は父と共に主君を変えながら最終的には秀吉に帰属し、
秀吉の死後も豊臣家に忠誠を尽くし、「関ヶ原の戦い」「大坂冬の陣」
「大坂夏の陣」では獅子奮迅の闘いを・・・
「上杉謙信」は近隣の武将達からも頼られ「義」のために戦ったことや
武田信玄との5回にも及ぶ川中島の戦いの勇猛果敢ぶり・・・これぞ戦う男の
姿なり・・と思ったことも・・・。
そして武田信玄が今川氏真によって塩を断たれたときには
『戦いは刀で行うべき・・』と武田軍に塩を送り信玄を助けたこと・・・
『敵に塩を送る』ということわざの基ともなったこの美談も私の心に響く。
「楠正成」の生涯は「高潔な武士」として描かれその言動が日本人の鏡として
伝えられている。
「大谷吉継」は石田三成との友情を大切に考え、味方を裏切って敵と通じる
小早川秀秋と闘い、不利な戦いを最後まで潔いものとした。
これらの事から私は後に滝沢馬琴によって書かれた同時代の物語
『南総里見八犬伝』の『仁、義、忠、孝、礼、智、信、悌』の仁義八行を
重んじるような戦国武将が好きなのである。
『麒麟がくる』の登場人物のうち私が子供のころから持っていたイメージと
違うことにも何か新しい解釈を感じ、関心もあった。
織田信長や徳川家康は私のイメージとはずいぶん違っていた。
キャストから受ける印象も大きな要因だったと思うが・・・
織田信長はもう少し、威圧感や重厚なイメージがあってもいいのでは?・・
と思ったし、私は徳川家康は嫌いだが家康も、もう少しずるい感じも含めた
よく言えば鷹揚な懐の深い感じのするキャストでもよかったのでは?・・と。
信長も、家康も若いころの姿としてはまあまあとしても織田信長が死亡した
時の年齢を考えるとミスキャストのような気がしてならなかった。
しかし長い時間もあっという間に過ぎたことはやはり歴史小説が好きで
それを読む時間が楽しく、武将たちから『さらに長生きせよ・・・』という
応援の声が聞こえてくるようなのだ。