『いつも、いつでも元気炸裂!』

どんな環境やどんな状況でも、どんな人とでも明るく元気な笑顔で交流するよう心がければ自他ともに更に元気な心が増幅します。

美しい日本語・・というと

2018-11-30 12:16:44 | 喜怒哀楽をポジティブに
今日の『美しい日本語・・』というタイトルだけで間髪を入れず共鳴して
いただける方もいれば『何?それ!』と訝しがる方々もいることと思う。

一つのものや言葉、情景、状況などをいろんな言い方で表す日本語には
優しい響きや温かみのある美しい表現が数多くあり、私たちも日頃何気なく
使っているものもたくさんあることに気づく。

単語や四季折々の言葉、慣用句などだけではなく『発音』でも美しい日本語の
大切さを常々感じているのでお節介気味に投稿してみることにした。

実は最近、若い歌手やタレントたちの言葉が非常に気になり時には嫌悪感をも
持ってしまうことがあるからである。

テレビやネットの歌番組などを好んで観ているわけではないが、ジャニーズ系の
複数のグループやAKB48、乃木坂46、欅坂46などのグループの中には『鼻濁音』と
『濁音』の区別ができず(使い方がわからず?)耳障りな印象を与えてしまっている
ケースが多いのでないかと思う。
少なくとも我が家では不快の念を抱いている。

厭ならば聞かなければ・・・と思う方々もいることと思うが、念のためネットで
彼ら、彼女らの歌を聞いてみたがすべてではないにしても鼻濁音で歌うべきところを
あたかも自然のように平気で濁音で歌っている。

アナウンサーはもちろんであるがベテランのミュージシャン、歌手たちのほとんどが
きれいな鼻濁音で心地よい歌声を聞かせてくれる。

「高橋真利子」「五輪真弓」「芹洋子」「竹内まりや」「岡本真夜」
などの歌には明るい曲にも静かな曲にも心を動かされるものがあり説得力があると思う。
それは曲調や歌詞、歌い方にも大きな要因はあると思うが、彼女たちはみんな
鼻濁音をきれいに使って歌っていることも見逃せないと思う。

私は演歌が好きではないので前述の歌手たちの歌を聞くことが多いがベテランに限らず、
若い歌手にも「濁音」「鼻濁音」をしっかりと使い分けている演歌歌手がいることも
確かである。

歌手は人前で歌うので特にわかりやすいが一般社会でも時々遭遇する・・・。
ではなぜ鼻濁音を使える人とそうでない人がいるのだろう?
家庭や育った環境?教育?
ゆっくりと教えたり学んだりする時間もなかったのだろうか?自分では解明できない。

私がこの疑問を持ち始めたのはかなり前だがそのきっかけとなったのが
4年前、NHKの朝ドラ(連続テレビ小説)の『花子とアン』の主題歌『にじいろ』である。

歌っているのは幅広いファン層を持ち歌唱力もある言われている『絢香』だが
この『にじいろ』は最初から最後まですべてが『濁音』で本当に耳障りでいやな響き
だと思う。私に限らず以前ネットでも同じ声が多く聞かれた。

彼女が歌う他の曲を聴いてもやはり鼻濁音であるべきところが濁音で歌われている。
もちろん彼女の人間性を含めてすべてを嫌い否定するつもりなど全くないが
私たちの耳に優しい響きのある歌い方であればもっともっとファンも多くなるのでは
ないだろうか。

ここで誤解のないよう、この話は『絢香』であって『平原綾香』ではないことと同時に
『平原綾香』の鼻濁音は温かく柔らかく心に入ってくることを確認し伝えておきたい。

私のこの意見に対し当然ながらいろんな反論があるだろうと思う。

以前、NHKのホームページに多少時間を要しても『すべての声にお応えします』と書いて
あったのでこの件も含め何度も問い合わせその都度前回に問い合わせた手紙のコピーなども
同封し投函したが一度も回答はなかった。

言葉の使い方や意味なども時代と共に少しずつ変わったり進化(?)したりすると
いうことも理解できなくもないが、古来私たちが受け継いできた美しい日本語を
後々まで伝えていきたいという私たちの声がかき消されないよう、機会あるごとに
考えたたり訴えたりしていきたいと思っている。




















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友人のあの声が今も聞こえる・・・

2018-11-29 14:16:18 | 喜怒哀楽をポジティブに
亡くなった友人の奥さんから私の妻宛に久しぶりにメールがあった。
妻は誰よりも仲のいい私の姉と電話中だったのでとりあえず後で電話する旨の
返信メールを送り、その後すぐに電話で話し始めた。

久しぶりの電話だったので子供たちのことを含めお互いに近況報告などで
あっという間に1時間が経過し、本当に楽しそうだった。

その友人が亡くなったのは9年前、彼が68歳、私が67歳だったが、家族ぐるみの
付き合いはそのころでももうすでに40年以上経っていた。

もともとは会社の同僚で結婚もほとんど同時期だった。
そして彼の奥さんも私の妻も支店、本社等それぞれ所属は違ったが同じ会社で
仕事をした仲間だったのだ。

最初の出会いは1967年、彼と私が人事異動で同じ支店に配属された時で、最初から
馬が合い、車の話や愛読書などでも大いに語り合った仲だった。
時を経ずして彼はお互いが社内結婚で私の妻が本社〇〇課の〇〇であることを知って
『何ぃ!お前の奥さんは〇〇だって?』『何でなんだよ~っ』と驚愕・・・。

そのわけは・・・
彼が別の支店にいるころ本社とのやり取りで対応した私の妻(そのころは未婚)と
仕事の進め方や文章の作成、問題点などで交渉するも折り合いがつかず、問題の解決
どころかお互いに嫌悪感をもって渡り合いその後も『生意気でいやな奴』という印象を
持ち続け『いつかは懲らしめてやろう・・・』と思っていたとのこと。

そんないやな奴が結婚した相手私だということなので彼の驚きは推して知るべし・・・。
しかしそれがきっかけでもともと豪放磊落な彼は、私の妻との過去のトラブルなどは
むしろ楽しい笑い話として語るようになり、元来明るさが取り柄の私の妻も彼と顔を
合わせた瞬間からおどけて見せ、私たちは一層仲良くなり両家族は本当の家族のように
なり、以来家族ぐるみの付き合いが続いているのだ。

今回、妻も彼の奥さんと久しぶりに話ができて本当に楽しそうだったが
私は私で今回のメールを機に彼とのいろいろな付き合いに思いを馳せる時間を持つことが
できたのが本当に嬉しい。

何といっても一番の思い出ででもあり絆の深さというのは息子に『将太郎』という名を
つけてくれたことである。
因みに彼の長男の名は『龍一郎』。

名前の由来・・とでもいうのだろうか、そのころ彼と私はお互いに歴史小説が好きで
常に本の感想なども語り合っているうちに日本の男の子らしい名前を・・ということから
彼は私の息子に『将』という字に相応しい人間になってほしいということで『将太郎』と
いう名前をつけてくれたのである。

私たちは知り合ってからずう~っと「司馬遼太郎」の作品を読み続けていて休日は
お互いの家を行き来して彼の大好きな『剣菱』を飲み交わしながら司馬遼太郎の小説に
ついて延々と語り合ったこともしばしば・・・。
剣菱一本があっという間になくなってしまったことが懐かしく蘇る・・・。

残念ながら68歳で逝ってしまったが彼や彼の家族との思い出はいつまでも鮮明に
残ることだろう。

車が好きな私たちは車についても語ったりドライブしたりもして楽しんだ。
一緒に彼の「コロナ」で「有馬温泉」「姫路城」を経由して「別府温泉」宮崎県、
熊本県をめぐり、指宿温泉で年甲斐もなくはしゃいだことが昨日のように思える。

最近の若者たちの中にはいろんな理由や事情で車離れをする人たちもかなり多いと
聞くが私たちの若いころは『車を持ちたい・・・』というのが当たり前のような
感覚で若者の関心は高かったし目標の一つでもあったと思う。

私も彼と知り合う前から車が好きで、結婚直後から車を購入し、第一号車は
あの懐かしい「ヒルマンミンクス」だった。
もちろん中古車で、次が「パブリカ800」そして「コルト1000F」と中古車が続き、
その後ようやく「カローラ」の新車を手に入れ家族と共に妻の実家へも時々出かけ、
田舎の景色に触れ,珍しい食べ物などに子供たちも喜んだり戸惑ったりで今は亡き
両親にも喜んだもらえる貴重な時間を作ることができた。

その後[コロナ]の新車の購入後は再び中古車の選択となり「シルビア」「サバンナ」
「スカイライン」「クレスタ」「マークⅡ」「ウィンダム」などのそれぞれの良さを
楽しんできた。

私は38歳の時に20年ほど務めた会社を彼より一足先に辞めて弟と起業したが結果的には
失敗となり、その後またサラリーマン生活に戻ったが定年退職後は好きな車の仕事・・
ということで今年の5月まで運送業界で働いてきたので今もワンボックス車をいろんな
面で活用している。

亡くなった彼もその後転職し小さな会社を作り私とは違い成功を修めたが仕事柄
クラウン、マジェスタ等に乗ることが多かった。

サラリーマン生活に戻った私は若者たちともよく車とバイクの話で夜を明かすことも
あった。
バブル時代だったので若者たちもこぞっていい車や好きな車を購入し、青春を
謳歌していた。
そのころ私は若者たちの前で『いつかはクラウン・・・』と言うと若者たちは
嶋さん、今は『いつかはクラウン』じゃなくて『いつでもクラウンですよ』と
言われたことも懐かしく蘇る。

その若者たちも既に50代のいいお父さんたちである。
自分たちの若き頃と今の若者の感覚とのギャップをどう埋めたりしているのだろうか。

私が亡くなった彼について『この世に二人とない知己を得た』と思ったと同じように
彼らもそのころからの仲間に同じ思いを抱くこともあるのだろうか。

もちろん彼以外にも月に何度か顔を合わせる複数の友人達はいるがそれを有難いと
思いながら彼らとの交流や思い出ももっともっと作っていきたい。
































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小さな挨拶が心を和ませる。

2018-11-17 21:41:12 | 喜怒哀楽をポジティブに
私は子供の頃から母親に自分が知っている人を見かけたら、顔を合わせた時はもちろんのこと
その人の背中しか見えなくても明るい笑顔で挨拶をしなさい・・ということを機会あるごとに
言われていた。
そしてそうすることに何の抵抗も違和感もなく、それを私は学生時代も社会人になってからも
ごく普通に実践してきた。

結婚してからも夫婦二人で自然に行い、そして子供達にも小さいころから日常生活の中の
挨拶の一つとして伝えてきた。

この我が家の伝統(?)は近くに住む孫にも受け継がれており、幼稚園の頃から明るい挨拶を
していた孫もいまやもう20歳・・・自分ながらしっかりと挨拶のできる本当にいい孫だと思う。

背中越しに挨拶をするということに多少の抵抗を感じるという人がいるかもしれないが、
挨拶をされたほうは厭な気持になるというケースはそんなにはないと思うし、むしろ
自然に明るい表情になり、お互いの笑顔が一言二言話を弾ませることにもなり私は嬉しく思う。

私の住むマンションにも幼い頃からきちんと明るい挨拶ができる子供たちが何人もいて
孫と同じように20歳を超えた今も明るい笑顔で挨拶をしてくれると可愛くきれいな顔や表情が
一段と素晴らしく見えるのである。

2年ほど前に引っ越してきて、今年中学生になった女の子が初めて出会ったエントランスで
笑顔で挨拶をしてくれて私たち夫婦の心を和ませてくれた日のことが忘れられない。
その子は今も背中からでも遠くからでも声をかけてくれるがその表情はいつもきっと
にこやかで目も輝いていることと思う。

私は車の運転中に横断歩道はもちろん、信号のない交差点や住宅街の道路などで横断者を
見かけると停止し、歩行者の横断を優先・・・としているが、その時に軽く会釈されたり
『ありがとう!』の合図のようなものをされたときは本当に『ほっこり』する。

歩行者を優先し車を停止するのは当然のことなので、『ありがとう』という意味の会釈や
合図がなくてもそれはそれでいいのだが、孫を乗せてる時などは『何故挨拶をしないのだろう・・』
などと言うこともあったが孫は私の意図するところはとっくにわかっていたので自分では
きちんと挨拶しているようだ。

同じ状況で親子連れの場合、横断する時に親が挨拶するような場合はそれを見ている子供も
挨拶をするし、その子が一人で外出するときなどもきっときちんと『ありがとう』の
意思表示をするものだと思う。
実際に子供一人で横断する時ににこっと笑って渡る子供たちもたくさん見かけるから。

9月に『子供の笑顔を見ると・・・』というタイトルで投稿した記事にもこの笑顔と
嬉しい気持ちを書いたことをいまちょっと思い出した。

やっぱり小さな笑顔が心を和ませ、楽しさ嬉しさをも引き出し優しさ、おおらかさにも
繫がるのではないだろうか。









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やっぱり野球が好き!第一弾(阪神タイガース-3)

2018-11-10 10:21:58 | 喜怒哀楽をポジティブに
阪神の監督は就任期間が平均2年という短期で交代しているようだが、子供の頃からの
記憶を辿ると1期、2期と間隔を置いての就任はあったが確かに長期政権はなかったと思う。

記憶に残っているのは当時の野球人とはちょっと違った風貌の温厚な紳士というイメージの
カイザー田中、リーグ優勝最多の藤本定義、監督を3期務め日本一にもなった吉田義男、
成績は下位に低迷したが選手の意識を変えたと思われる野村克也、弱いチームを立て直し
厳しい野球でリーグ優勝に導いた星野仙一、私の好きな作戦ではないがバント戦法などの堅実な
野球でチーム力を上げリーグ優勝も達成した岡田彰布、そして笑顔で選手を迎え、若手の育成と
起用で阪神ファンの心を盛り上げ、残念ながら今年退任(解任?)の金本知憲だろうか。

来年は矢野監督に近い将来クリーンアップを担える大砲が何門もあるのでその若手を中心とした
強力打線と広島カープを上回る走りまくる野球でを上位、更に優勝を目指してほしい。
もちろん福留、糸井、鳥谷など頼りがいのあるベテラン達の起用も併せて・・・。

私の希望としてはノーアウト1塁、或いは1,2塁でも決してバントで進塁させるなどということは
なく『猛虎打線』に相応しいとにかく豪快な野球をしてほしいと願っている。
バントはしなくても走力があれば次の塁はとれるし、打力を併せ持ったそういう選手が阪神には
多いのだから。







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やっぱり野球が好き!第一弾(阪神タイガース-2)

2018-11-10 08:37:51 | 喜怒哀楽をポジティブに
昨日は1950~60年代のタイガースの懐かしい一面を思い起こしたが、それは
先日買い物のついでに立ち寄った書店で『週刊ベースボール』を目にしたからかも
しれない。

週刊ベースボールと言えば私が高校生の頃に発行された野球専門週刊誌で
発売以来、弟と1周ずつ交代で自分たちのこづかいで購入していた。

時は昭和33年、1958年のことで58年も前のことだが鮮明に覚えている。
当時中学生だった弟も野球好きで当然のごとく部活でも野球をやっていたので
二人とも発売日が待ち遠しかった。

そして順番で自分が買う週の『週刊ベースボール』はそれぞれ購入した者が
先に読む・・・という暗黙の了解のもとに交代で隅々まで読んだことが懐かしく蘇る。

高校球児を諦めた私が部活を終えて帰る弟よりも早く帰宅するような時は
弟が買う予定の週であっても私が購入しておき、弟が帰宅すると本を渡して代金を
受け取ることとし、弟が帰宅するまでは先に読むのを我慢し決してルールは
破らないと決めていた。
もちろん、逆の立場でもルール順守で・・・。

それまでは月刊誌の『ベースボールマガジン』をやはりこづかいを出し合って
購入し、隅々まで読んでいたことが懐かしく思い出される。

週刊ベースボール創刊当時は長島茂雄さんがデビューしたころで阪神ファンの私も
国鉄ファンの弟も長島選手や広岡選手の記事もむさぼるように読んだことを覚えている。
弟が内野手だったこともあり阪神の吉田、三宅、巨人の広岡、長嶋、国鉄の箱田
などの記事には注目していた。

阪神ファンの私は弟がファンである国鉄スワローズの金田、根来のバッテリーや
飯田、箱田、町田、佐藤の主力選手たちのことやライバルである巨人の藤田、藤尾の
バッテリー、長島、広岡、与那嶺、坂崎、などの名前も長い年月を経た今でも
すらすらと出てくるくらい週刊ベースボールにはお世話になったと思う。

さて、ここで阪神タイガースファンの私としては自己中心的に言っておきたいことがある。
今、夫婦二人だけの我が家ではテレビを見るにしてもやはり野球シーズンが一番の楽しみで
二人ともオフシーズンはなんとなく力が入らず、毎年開幕が待ち遠しい。

野球好きの二人はやはり野球の話題も多く、結婚以来家内も野球に関して各チームや
選手のこと、そしてルールのことなども多少覚え、理解してきたので今や息子夫婦や
娘夫婦よりも知識があるかもしれないというところまで来ている。

二人は私が阪神、家内が巨人ファンでさほど大きな衝突やトラブルなどはないが
家内は巨人、阪神の直接対決でもそれほど大騒ぎはせず、それぞれが他のチームと
戦う時などは巨人も阪神も勝てばいいじゃない・・・などと言う。

ところが私はそうはいかない・・・。
常に阪神が勝ち、巨人が負けることを期待しているので直接対決ではもちろんのこと
他チームとの試合であっても阪神が勝ち巨人も勝ってもいいとは決して思わないのである。

阪神ファンの中にはおおらかな人もたくさんいることと思うが私は料簡が狭いと言われようが
頑なに阪神が勝ち、巨人が負けることで溜飲を下げたいと思っているのだ。
こんなことをいう私でも巨人の中にも好きな選手、好感を持てる選手もいる。
それもこれも含めて『やっぱり野球が好き!』なのである。



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やっぱり野球が好き!第一弾(阪神タイガース-1)

2018-11-09 15:37:56 | 喜怒哀楽をポジティブに
私が一番好きなスポーツ(球技)は幼い子供の頃から野球でありこれは今も全く変わっていない。
野球は身近だったこともあり小さい頃は観るよりやるスポーツでもあったし、他のスポーツに
比べて野球人口も多かったという影響があるのかもしれない。

中学、高校時代も送球部(ハンドボール)排球部(バレーボール)篭球部(バスケットボール)
庭球部(テニス)蹴球部(サッカー)などと表示されることはあったが、通常の会話等では
野球、卓球、ハンドボール、バレーボール、バスケットボールなどという言葉を使っていたし
実際にやるスポーツとしては野球を筆頭にこれらが圧倒的に多かったと思う。

私の育った時代や地域のすべてがそうだったのかどうかはわからないが、高校を卒業するまで
部活はもとより授業でもサッカーやラグビー、フットボールの類は一度もやった記憶がない。

体育の時間はバスケットボール、ハンドボール、バレーボールなどの球技が多く、特に
母校のハンドボール部は常に全国でもトップレベルという伝統があり、ハンドボール部員は
もちろん、部員以外でもよく楽しんでやっていた。

他のスポーツも含め文武両道を目指す母校はこのハンドボール強豪校の伝統をつなぎ続け、
全国制覇も8度、そして今年は高校3冠を達成するという偉業も成し遂げ、卒業生としては
本当に嬉しく思う。

話を戻して・・・やったことのないラグビーは闘球、フットボールは鎧球、いうことを
知った時、やはり日本語は素晴らしい・・・と思ったことをよく覚えている。
ついでにソフトボールの日本語表記は『柔球』や『塁球』と言い、ドッジボールは避球と
いう日本語表記があるらしい。

さて、肝心のタイトル『やっぱり野球が好き!』については語りつくせないほどの
思いや、思い出、想い出が胸にも頭にもぎゅうぎゅうに詰まっている。

その頃の私はやはり『高校球児』に憧れていたが、勉学と野球を両立させるのは
難しいという両親の強い言葉や方針に負けてしまい、自分の名前と同じ文武両道を
活かす野球をめざすことを諦めてしまった。

そういうことで後悔のようなものもあり社会人となってからは草野球を続け、定年後も
若い人たちと野球を楽しむことをしばらく続けていた。

私は物心ついたころからの阪神タイガース(大阪タイガース)ファンでダイナマイト打線
(弟一次)と呼ばれた時代の主力選手たちの実際のプレーは観たことがないが、その後
語り継がれる猛将達の豪快さなどには多くの感動を覚えてきた。

阪神の大阪タイガース時代(私の小学生から高校生まで)の1950年代頃の思い出と
1960年代(私の20代)の思い出が一番心に残っている。
年配の阪神ファンには懐かしい吉田義男、三宅秀史、大津淳、田宮謙次郎、並木輝男、
白坂長英、鎌田実、山本哲也、小山正明、渡辺省三、更に本屋敷錦吾、山内一弘、
藤井栄治、遠井五郎、ジーン・バッキーなどが、さらに藤田平、カークランド、江夏豊、
田淵幸一などが活躍した時代が昨日のように懐かしく蘇る。

1970年代は江夏、田淵、遠井、掛布雅之、などに加えカークランド、ブリーデン、
ラインバックなど助っ人の顔もすぐに浮かんでくる。後に問題発言として取り上げられた
江本孟紀などの表情も・・・

1980年代の阪神タイガースは1985年のニューダイナマイト打線(弟二次)までの間、
優勝からは遠ざかってはいても強いタイガースというイメージが残っている。
何といってもバックスクリーン3連発のバース、掛布、岡田だろう。

阪神タイガースは下位に低迷する時代もあったがどの選手たちも私にとって毎年数々の
思い出を作ってくれた。
今年は2位から6位までは連日順位が変わるという状態でCS出場のチャンスがかなり高い
確率の筈だったが交流戦の成績(6勝11敗1分)と最後の最後(10月)に3勝8敗と
大きく負け越し、結果最下位に終わってしまった。

個人的には金本監督にもうしばらく監督を続けてもらいたいと思っていたが、
よくありがちな監督交代劇で残念ながら任期を残しての退陣となってしまった。

来年は中谷、陽川、大山、江越、原口、江越、高山、伊藤、北条、糸原、梅野、などの
打力と上本、熊谷、上田、島田などの走力を駆使した総合力で常にいい試合をして
優勝を狙えるよう金本監督の後を委ねられた矢野新監督に捲土重来を期待したいと思う。
『猛虎打線』を真の『ダイナマイト打線』に変えてバントなしで打って打って打ちまくり、
塁上を駆け巡る野球をキンキンに冷えたビールを飲みながら観てみたい。










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