以前、描きかけのラドンの続きです。話しは変わりますが、父は先の太平洋戦争で兵隊にいった人です。陸軍の航空隊の整備兵をしていました。主に百式の整備をしていたそうです。
ダム工事や造船所に従事して、それから樺太の飛行場に行き、終戦は関西の伊丹基地でむかえたという話しを聞いた事があります。一年程かけて郷里の北海道に辿り着いた時には自分の位牌があったそうです。
そういう苦労の先人達にしてみれば戦後の映画は娯楽の殿堂であった事には間違いないでしょう。どんな田舎にも映画館はありました。それだけ映画は活況していたのは子供の頃を振り返っても分かります。
このラドンは幼少の頃に父に連れられて観にいった思い出深い映画です。ラドンの旋風で町々が粉々に砕け散っていく様を父のように戦争を体験した人はどういう気持ちで観たのでしょうか。この頃ふっと思います。
父は米軍の空襲の爆風で片耳が聴こえないそうです。倒れて気が付くと顔半分に爆風で粘土がへばりついていたそうです。ほんの数十センチの立ち位置で生死をわけるとも言っていましたから、生きて帰った父は運が良いのでしょう。
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