気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

拾翠亭の空間

2022年09月25日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 京都御苑の旧九條家別邸の拾翠亭は、数少ない近世公家住宅の遺構のなかでも古式を伝えるとされています。上図の広縁などは、そのまま平安期公家邸宅の広縁の系譜上にあるような空間を示します。

 一見するとひとつの広縁ですが、よく見ると上図のように縁の中央で線が引かれていて、線の左右の敷板の幅が異なることに気付かされます。線の外側の縁板は幅が狭く、内側の縁板は幅が広いです。それぞれの造りの差は天井にも示されていて、外側は化粧屋根裏、内側は鏡天井となっています。平安朝の昔には、源氏物語絵巻などの描写に見られるように、内側の空間に高位の人が坐し、外側は女官や従者などが控えていたことが知られるので、建築内における身分ごとの空間規模が受け継がれて広縁にもこのような造りの差が伝わっているのでしょう。

 

 広縁に限らず、玄関からの空間構成も、九條家当主とそれ以外の住人との区別を示しています。上図は玄関から続く控えの間ですが、当主は玄関から奥の通廊を通って主室の広間に直行し、従者および女官はこちらの控えの間に入って奉仕の番があるまで待機します。
 従者および女官といっても、官位のうえでは七位ぐらいはあったので、庶民や武士よりは身分が高いのが普通でした。控えの間といっても七畳半の広さがあり、主室と変わらぬ造りとしつらえを示します。

 

 こちらは主室の広間です。当主および客人のみが入れる空間で、建物の中心にあって十畳と最も広いです。上図左奥にみえる小さな絵画入りの戸板は、当主専用の出入口で、当主は玄関から通廊を経てこの戸口から広間に入ります。控えの間を通る事はありませんから、控えの間の襖を開け閉めして出入りするのは従者および女官のみです。

 

 そして広間の南西寄りの畳が小さく方形切りにはめられてあり、その下には炉がおさめてあります。茶室としても使用出来るように作ってあります。茶席の参会者が多数にわたる場合にはここで催されるのでしょう。

 

 広間からは、広縁を通して北と東に眺望が開けます。東は九條池の景色が望まれますが、北は上図のような景色になります。九條池のほとりの藤棚、東屋が見えます。

 

 広間の奥には小間と呼ばれる奥の茶室があります。玄関からの通廊の突き当りから小間を見たところです。出入り口が二ヶ所にあっていずれも太鼓張りの襖になっていますが、左側が主人の手前座への出入り口にあたります。右は給仕口の襖で引違いになっています。小間は立ち入り禁止になっているので、出入口から中を覗き込むだけでした。

 

 小間の内部です。奥が北側で、庭園からの躙り口(にじりぐち)が奥に開け放たれていました。客人はそこから入って二畳敷の客座に座します。主が座する上図左手の手前座は一畳で、客座とは炉を切る床板で仕切られます。三畳中板の席と呼ばれる標準的な茶室空間の規模です。

 

 小間の南側に隣接する給仕用の勝手口と道具置き場の棚室です。棚室の床は竹で敷かれて流し場としても機能したそうです。いまでいう台所にあたる空間です。小間にて茶席が設けられる際の従者および給仕の奉仕作業の空間にあたります。

 

 小間の窓は全て蔀(しとみ)の形式で、蔀板を下におろせば小間内を暗くすることが出来ます。公家衆の内密の集まり等においては窓を閉め切ることが多いので、このような窓の形式が多いです。

 このしつらえにU氏は興味津々であちこち細かく見ては、小間が立ち入り禁止であるのを残念がっていました。水戸黄門の大ファンであるU氏のことですから、立ち入り禁止でなければ入り込んでどっかりと座し、悪役公卿の内密の謀のシーンでも再現したに違いありません。

 果たして、「のう右京大夫殿、さる大納言家の某に仔細ありとの風聞が」と時代劇っぽく低い声でささやいてきたのでした。それで私も「なに仔細とな、水戸権中納言殿の地獄耳も相変わらずよの」とノリノリで返しました。はたから見たら変なオッサン二人であったことでしょう。

 

 二階の座敷に上がりました。拾翠亭における最上の造りを示す空間で、武家風の書院造りの要素も加えてあります。床の間は畳との段差が無い、いわゆる「踏込床(ふみこみどこ)」の形式に造られます。これは床框(とこがまち)がありませんから、床の間にも畳からの続きのくだけた感じを醸し出しており、この座敷が完全な休憩用の空間であることを端的に示しています。  (続く)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする