拾翠亭二階の座敷からの眺めは御覧の通りで、東には九條池と高倉橋が見えます。U氏はこの景色が気に入った様子で、しばらく眺めていました。地元の水戸でも、月に一回は偕楽園に行って風光を愛でるのが習慣であるほどに、庭園が好きな人です。いわゆる庭園マニアで、奈良や京都の古い庭園や雅な庭に常に憧れがあるそうです。
そして北には九條池の汀線がほぼ直線に望まれ、その左右に藤棚と東屋が見えます。東屋は京公家においては四阿と表記され、読みは同じ「あずまや」ですが、唐風に音読して「しあ」と呼ぶ場合もあります。
まったりと景色を眺めつつ、時折吹いてくる風に若葉の香りを感じました。
U氏が次に「これは何かな」と指したのが、上図の障子の紙の貼り付け状態でした。御覧のように真ん中に紙の継ぎ目が見え、それが上下でずれているのでした。ああこれが「石垣貼り」か、と以前に京都御所の参観にて嫁さんに教わった公家邸宅独特の障子紙の貼り方の知識を思い出しました。
石垣貼りとは、障子紙の紙の継ぎ目を縦の桟の二本間隔ずつずらして互い違いに貼る方法で、紙の寸法や切り方や貼り方のそれぞれに高度な技術が要求されます。
武家邸宅の障子紙は一枚の大きな紙をベタッと貼るだけですが、皺やズレが出やすくなります。季節の寒暖差による紙の収縮が大きくて破れが生じやすくなります。これは公家邸宅や寺社建築での障子紙の貼り方を形だけまねて一枚紙で貼っているわけですが、本来の古式な貼り方は石垣貼りのように紙を細かく重ねて継ぎ目も綺麗に整えるものです。
ここ拾翠亭の全ての部屋の全ての障子戸や欄間や明り取りの紙がこの石垣貼りで統一されていますが、よく見ないと気付かない特徴であるので、U氏の並々ならぬ観察眼のさまが伺えます。
二階座敷の南窓から、南側の表門と塀の区画を見下ろしました。この景色もU氏は「いいねえ、武家屋敷とは全然趣きが違うねえ、これが殿上人の雅の空間なんだねえ」と上機嫌で眺めていました。
「おい星野、連子窓の横桟に模様が切り抜いてあるぞ」
「あー、それは丁子七宝やな」
「チョウジシッポウ?」
「うん、丁子は漢方薬の原料の草のひとつ、仏教でいう七つの宝の一つとされたんで、丁子七宝と呼ばれる」
「ふーん、流石に詳しいな・・・」
「いや、これは嫁さんの受け売り。あれのほうがこういうことに物凄く詳しい」
「そうか、怜子さんは王朝文化とか公家文化の研究やってたとか聞いたな。いい奥さんだねえ。一緒に楽しく社寺史跡巡礼が楽しめるわけだな、羨ましい。しかもモケジョさんときてるから、ガルパンとかのプラモも一緒に楽しめるな」
「最近はもうガンプラに戻ってるけどな・・・」
「そうなのか、ガルパンもオワコンになったのかね」
「こっちの欄干の造形もなかなか凝ってるねえ、こんなの武家屋敷じゃ見ないなあ」
「そうやな。公家邸宅のこういうしつらえは、源流が天皇の御所建築にあるからな、御所の素晴らしい建物や建具を専門に作ってる一流の職人が上級公卿の邸宅にもかかわったりするから、材料も技術も費用もトップクラスに近くなる」
「だろうな」
では降りるか、とU氏が立ち上がり、30分余りをまったりと過ごした二階座敷より下へ降りました。階段の手摺にもU氏は感心して「これ、一本の磨き丸太で作ってあるよ、反対側のも一本だし。すっげえ贅沢だなあ」と言いました。確かにこれだけの長さの真っ直ぐな柿の細い丸太というのは貴重であり、なかなか得られないものでしょう。手摺一つにも、九條家の格式と財力とがしのばれます。
玄関口より外に出て、庭園の散策路に進みました。拾翠亭の西側の飛び石から北側に行きましたので、小間の茶室部分の外観がよく見えました。小間だけが外壁の色も異なり、建て方も数寄屋ふうになっているのが分かります。
北側に回って改めて外観を見ますと、小間の茶室部分が窓も小さく閉鎖的な数寄屋ふうであるのに対して、主室や二階座敷は広縁を大きくとって開放した間口が目立ち、王朝時代邸宅の名残をとどめているかのようです。
小間部分の雰囲気は、武家屋敷の茶室のそれとあまり変わりません。それでU氏は気に入ったらしく、躙り口まで寄って中を覗いたり、時代劇の密偵の真似をして「畏れながら注進・・」などと呟いたりしていました。おそらく、水戸光圀の西山荘の奥茶室に見立てていたのでしょう。 (続く)