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二条城1 二条城へ

2025年01月05日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 2024年11月4日、去る9月から17年ぶりに一般公開が再開された二条城本丸御殿を見たい、と嫁さんが言うので、お供して二条城へ行きました。本丸御殿は私も見た事が無かったので興味深々でしたが、嫁さんは二条城に行くのが小学校の遠足以来22年ぶりだそうで、私よりも張り切っていました。

 予定では昼前からゆっくりと行こう、と決めてあったのですが、当日の朝になって嫁さんに叩き起こされ、「午後にも行きたい所ができましたので予定変更です、早く行きましょう」と急かされました。なんで前倒しすんねん、と思いつつも、朝食後すぐに出て地下鉄に乗り、二条城前駅で降りました。
 その時もまだ眠気がとれずボーッとした状態で嫁さんに引っ張られていきましたが、外へ出て二条城の外構えの景色を見た途端に目が覚めました。城郭ファンとしてのスイッチが入ってしまったのでした。

 

 「おー、東南隅櫓やな」
 「ええ、東南隅櫓ですね。二条城の二つの櫓の片方ですね、大きいほうですね」
 「寛永元年(1624)やったか、後水尾天皇の行幸に際して建てられた櫓や。堀川通に面する東が大手なので、この櫓も見栄えがするように大き目に建てたわけやな」
 「国の重要文化財になってると聞きましたけど、内部の一般公開とかしてないんですよね」
 「一般公開はしてないけど、時々特別公開はしてる。確か、7年ぐらい前に一度入った事がある」
 「ふーん、中も立派に造ってあるんですか?」
 「いや、江戸期の櫓の一般的な造りやったな。他の城の櫓とあんまり変わらんかった」

 

 城の大手にあたる上図の東大手門(国重要文化財)をいったん通り過ぎて見学受付に行き、見学料金を支払いました。戻りながら嫁さんが上図の景色を撮り「このアングルも素敵ですねー、德川の城の堂々たる威容って感じ」と言いました。

 

 その東大手門の前に来ました。慶長七年(1602)の築城時からある正門で、最初は現在と同じく櫓門でしたが、後水尾天皇の行幸の際に、上から見下ろすのは不敬として一重門に変更され、行幸後に再び櫓門に戻されたという経緯をもちます。

 

 東大手門の脇にあった屏風。本丸御殿の一般公開再開を祝って設けられたものだそうです。

 

 東大手門の内側を見ました。嫁さんが「この機会にお城の建物の構造とか建て方とか勉強しておきたいです」と言うので、その見学を優先してついていくことにしました。

 二条城は、2011年からの20年計画で築城以来の全面的な修理が実施されており、この東大手門も2017年に修理が完了しています。柱の上下端などに取り付けられた錺(かざり)金具も、かつての輝きを取り戻しています。

 

 錺金具は、上図のように銅板上に金箔や墨で四弁唐花(しべんからはな)模様を表しています。豊臣期の大阪城や伏見城で豪華絢爛に造られた錺金具の系譜を引いていますが、豊臣期の極彩色のスタンスに対抗するように、彩色を省いて金色と黒塗りの柱とのコントラストを引き立たせています。

 

 嫁さんが「この金具はオリジナルのものがそのまま伝わってるんですか?」と訊いてきました。私もよく知らなかったので「さあ、どうかねえ、これの文化財修理報告書をまだ読んでないけど、明治期に離宮になった時に新たに付け直したとかが無ければ、オリジナルになるやろうね」と答えました。

 

 「あと、柱や壁に鉄板が並べて張ってありますねえ。防御のための工夫なんですか?」
 「そうやな。簡単に打ち破られないように堅牢にしてあるのと同時に、防火対策も兼ねてる。鉄板が打ってあると火もつきにくい」
 「ああ、なるほどです」

 

 「だから扉もびっしりと鉄板を張ってるんですねえ。頑丈で重たいし、火もつけにくい、合戦でこの門をこじ開けるの大変そう・・・」
 「史料ではこういうのを「鉄張」とか「金張り」とか書いてあるんやけど、「鉄張」の事例の早いケースが織田信長の鉄甲船やと言われてる。信長の鉄甲船は完全な装甲板を回したとか推定されてるけど、実際はこういう鉄板の張り方をしていたんじゃないかな、て思う」
 「ふーん」

 

 東大手門をくぐると、右手に上図の細長い建物があります。嫁さんが「遠足で来た時は確か、この建物で菊の花を並べてたんですよ」と言いました。私自身の記憶では、昔はこの建物の中にも侍姿のマネキンが並んでいて。何かの場面を再現展示していたような気がします。

 

 建物の説明板を見ました。嫁さんが「あっ、番所なんですね、この前に聖護院門跡で見たあれ、山門の横の建物も番所だろうとか言ってましたよね、同じ性格の建物なんですか」と言いました。そうだ、と返しました。

 

 番所の正面の扉はいずれも閉められていました。昔は開放されていて内部も見られたのですが、今では一般公開の対象からは外されているようです。
 嫁さんが「内部はどんな感じなんですか?」と訊いてきましたので「監視用の部屋と、東大手門を警固する武士の宿直部屋とが並んでる」と答えました。

 

 この番所は、二条城内の12ヶ所に設けられた番所のなかで唯一現存する建物です。1626年(寛永3)の後水尾天皇行幸を描いた寛永行幸絵図の現在地に番所が描かれますが、いまの建物は寛文三年(1663)に建て直されたものです。

 江戸期の二条城では、幕府から派遣された「二条在番」と呼ばれる武士たちが番所に宿直し、各所の門を警護していました。「二条在番」は1組50人が2組常駐し、番所を詰所としていました。かつては唐門、北大手門、西門の周囲にも番所が置かれていましたが、明治期に撤去されてしまいました。
 他の城郭遺跡においても、番所の建物が現存しているところは少なく、私が見てきた限りでは秋田県の久保田城、静岡県の掛川城、香川県の丸亀城の3ヶ所だけです。あと、平成18年に取り壊されてしまった滋賀県の膳所城の番所も見た記憶があります。  (続く)

 


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