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魅惑の醍醐寺4 醍醐寺北門付近

2023年09月29日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 理性院を辞して、総門前の道に出て左、北へと進んでみた。現在の醍醐寺境内地の北限となっている、北門まで行ってみたくなったからである。

 

 創建以来の醍醐寺伽藍には、東、西、南に門があって正式に東大門、西大門、南大門と呼ばれたが、北の門については史料上に名が見えないので、格式ある門が設けられなかった可能性が高い。有ったとしても、通用門程度の施設にとどまっていたかもしれない。

 現在は、上図のような状態で二本の柱が建てられるのみで「北門」とされているが、昔からこのようなシンプルな施設だったのではないか、と思う。醍醐寺境内地の北は皇族の陵墓地が並ぶので、現在のように北へと伸びる道が存在していたかは不明である。

 

 北門から引き返して南へと歩いた。左手には上図のように土塁状の高まりが続いているが、これはかなり古くからの施設であるらしい。その内側には、江戸期の「山城名勝志」に「下醍醐寺四十九院アリ」と述べられる四十九の子院のうちの二つが存在していたという。

 

 その二つの子院とは、11世紀後半期から12世紀前半期にかけての頃に建てられた蓮蔵院、13世紀前半期に建てられた地蔵院、を指す。上図の広大な跡地の手前が地蔵院跡、その奥が蓮蔵院跡にあたる。その奥に見える鳥居は醍醐寺のかつての鎮守とされた長尾天満宮のそれである。

 

 御覧のように、一帯の木は全て伐採され、長尾天満宮の参道筋までが広々として見渡せる。その奥の金堂の屋根も見えるが、この状態は発掘調査前の様子なのかな、と思った。それにしては何も事前公表の情報または資料が見当たらないので、なぜ広範囲にわたって伐採されているのかは分からなかった。

 

 三宝院の唐門の前まで戻った。この門は豊臣秀吉が「醍醐の花見」を催した翌年の慶長四年(1599)に建てられたもので、桃山時代を代表する形式と意匠を示す。「菊」と「五七の桐」の4つの大きな紋には金箔が施されており、これは表も裏も同じである。

 

 駐車場へ引き返す途中で、霊宝館の門前にある立て看板の案内に気付いた。

 

 この日は霊宝館の庭園と仏像展示館が無料で公開されているのであった。これはラッキーだな、と思って立ち寄ることにした。

 

 醍醐寺の霊宝館は、公立博物館なみの立派な施設群で知られ、中には醍醐寺文化財研究所も含まれる。九世紀の上醍醐創建以来の長い歴史にともなう膨大な寺宝、文化財群の調査保存、収蔵展示を担う施設であり、京都の古寺の霊宝館としては最大の規模とされる。昔は古い建物だったが、近年に大幅な建て直しが行われて見違えるようになった。

 

 この日は霊宝館の本館および主展示館は閉められており、南側奥の上図の仏像収蔵庫だけが公開されていた。醍醐寺に伝わる古代からの仏像の主な遺品がおさめられており、私にとっては大学生の頃から学び、調べて見慣れた像ばかりであった。平成10年に訪れて以来だったが、仏像のいずれも変わらぬ表情と姿とを保ち、私だけが年を取って変わったかなあ、と思い知らされたのみであった。

 しかし、醍醐寺が私にとっては京都の平安時代の歴史を実感させる第一の魅惑の古刹である点は変わらない。その尽きせぬ魅力を、京都に居る今の時期にこそ、一度は追いかけてみるべきかもしれない、と改めて思う。若い頃から何度も歩いた上下の伽藍を再び巡って、現在の私なりに色々考察してみるのも面白いな、と考えて、とりあえずは醍醐寺のレポートを「魅惑の醍醐寺」と題して綴り始めている次第である。  (続く)

 


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