日本、降伏文書に調印
1945年 9月2日、東京湾の戦艦ミズーリ号艦上で、日本政府全権の重光葵と大本営(日本軍)全権の梅津美治郎が、降伏文書に調印し、即日発効した。
米国やロシアは、この日を「対日戦勝記念日」と定めている。
イギリスは日本と同じく8月15日、
中国は9月3日である。
サンフランシスコ平和条約が調印
1951年9月8日には、極東軍事裁判の判決を受けて、平和条約であるサンフランシスコ平和条約が調印された。この条約が発効した
1952年4月28日をもって、その第一条にあるように、国際法上正式に日本と連合国との間の「戦争状態」は終結することとなった。
しかし、ソ連は、講和会議に参加したものの、同じ共産主義国の中華人民共和国の不参加を理由に、署名を拒否している。
ロシアと日本は今日にいたるまで未だに平和条約を結んでいない。
1945(昭和20)年9月2日
72年前のことです。この日午前9時、東京湾に浮かぶ米国戦艦ミズーリ号上にて、日本の降伏文書への調印式が行なわれました。
日本側からは、政府代表の重光葵外相と軍代表の梅津参謀総長が、連合国側からは、各国代表とマッカーサー最高司令官が夫々署名し、ここに満州事変に始まる14年の戦争は、正式に終結を見ました。
日本側は降伏文書に署名する人選に手間どり、難航の末に足の悪い重光外相におはちが回りました。米国側は足の悪い重光外相のために、わざわざ艦上に椅子を用意して丁重に応対してくれたのですが、軍部は、降伏の文字が文書に入ることに、最後まで抵抗するなど、情勢を弁えない幼児性を発揮しました。なんとも情けない連中です。
この正式降伏後、589万人に及んだ軍人・軍属の復員が始まります。この589万人のうち、外地に314万人が派遣されており、完全復員にはかなりの時間を要しました。このほかに、特に中国、朝鮮、台湾からの、多数の民間人の帰国問題が存在したのです。
本来であれば、民間人の保護を優先し、民間人を先に帰国させ、最後に軍人・軍属が引き上げるべきなのですが、当時の日本の軍部や政府には、民間人を重視する発想はなく、自己の都合ばかりを優先させたことが、帰国時の大混乱と数多くの悲劇を生んだのでした。
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